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PaniCrew

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バイオグラフィ

元来まだまだストリートダンスが一般には浸透していなかった'80、'90年代。その頃ディスコ、マイケルジャクソン、クラブシーンの台頭といった事柄に触れ、八人のメンバーはダンスと触れあう事になる。 当時ダンスの情報は限られた世界に存在し、スクール、学校等は皆無であり、ダンスの技術や交流は基本我流であり、果てはクラブがどこに存在するのか?といった状況であった。 しかし今から十数年前の第三次ダンスブーム(一次'70年代ソウル、二次'80年代ブレイクダンス。三次'90年代ニュージャックスウィング)到来により事体は一変する。 テレビ番組、プロモーションビデオ、クラブイベント等はストリートダンスを大きく取り上げ、当時の学生やまだ若い社会人らを大きく刺激した。時を同じくしてPaniCrewのメンバーもその社会現象ともいえる大きなムーブメントに衝撃を受け、より深くダンスの世界に関わり日々スキルを磨く事になる。それはまさに社会人や学生をしながら関西でダンスというまだまだ未知の可能性を秘めた扉の前に立った瞬間でもあった。しかしダンスブームとはいえ、まだまだ当時は現在より情報は少なく、練習場所やイベントは限られた場所で行われ、当時のストリートダンサーはどこへ行っても同じ顔ぶれになるのは必然であった。  そんな中、ダンスを始めた時期が同じ者達は当然意識し、ライバル視する事となる。 しかし世間ではダンス番組の終了を期に、第三次ダンスブームは過ぎ去り、過去ブレイクダンスがそうであったように、時から忘去られようとしていた。同じく洋楽のラッパーやソウルシンガーもバックダンサーを起用せず。ダンサーは冬の時代を迎える事となる。   だが、その流れと逆流するように関西(全国)でのダンスコンテストの数はうなぎ上りになり、PaniCrewのメンバーも前身のチーム(植木、山本が籍をおくNEW POWER G 笠原、森田、堀内らのパケラッタ。水野はスタイルオブオールドスクール。中野、佐々木らのリアルリズム)でコンテスト、イベントに参加し知名度とスキルを上げていく。 そんな'90年代中盤、コンテストなどで結果をだしていく過程で四つのチームは互いにライバル関係にありながらも互いに交流を深め、企画ユニットでコンテスト、イベントに大人数でコラボレート出演するようになる。(ユニット活動を推進していく原動力になった過程には、やはり「二位」「三位」ではなく「優勝」という結果が出てきた事。それと同ジャンル「POPPING」へのこだわりが、チームが違えど熱く八人のメンバーに存在していた事が大きな理由として挙げられるだろう。) その中の結果として 日本最大規模で行われる「ジャパンダンスディライト'96年」にパケラッタ&NEW POWER Gで挑戦し日本二位という結果を残す。 その後、笠原、森田、中野、水野、堀内、洋平らは「3D Connection」という同じチームになり、'98年に植木率いるNEW POWER Gとユニットを組み最強の布陣で「ジャパンダンスディライト'98年」に挑戦! 見事'96年のリベンジを果たし、日本一の称号を手に入れる事となる。   これをキッカケにダンスを通して今度はアンダーグラウンドではなくオーバーグラウンドへの挑戦を意識し始め、大阪は京橋でストリートライブを敢行した事が、PaniCrew結成の第一歩である。 現在のPaniCrewの根底にはアンダーグラウンドでの想い、そしてストリート ライブで得た「ダンスに興味が無い人の足をどうしたら止める事ができるか」 この二点が非常に大きなものとして存在している。  余談ではあるが、PaniCrew結成時、就職の関係で既に東京へ生活の拠点を移していた植木は、このPaniCrew結成の知らせを聞き、大阪へ戻る事となる。そして同年、東京で以前から交流のあった佐久間氏率いる「スパルタニックロッカーズ」のメンバーとして、イギリスで行われた「UKブレイクダンスコンテスト」で見事優勝、その後日本人初ともいえる「バトルオブザイヤー」に参戦。ベストパフォーマンス賞を受賞する事となる。
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