AWA
このページをシェア

説明文

早朝のシリア、アレッポからボロボロのトヨタの4駆で乾ききった道を走り続け、次の日の朝にはそのキャンプに着いていた。僕は学生で、日本ではバイトの毎日。ゼミの先生に会わなければ、ここにいることは無かったろう。ましてやゼミのあいつがいなければ、日本から離れるなんてことは無かった。砂漠もシリア人(イラク人との違いはまだ分からない)も軍事キャンプも初めてだ。多分、間違いなく銃を持たされ、走りに走り回され、朝は叩き起こされ怒鳴られる毎日だろう。あいつは大丈夫だろうか。付いて行けるのか。何となく暑さで朦朧としながら、他人事のように思っていた。引率(そう呼べるなら)してきた教授は、大学では見せたことのない笑顔で僕ら4人をキャンプの要人に紹介した。教授はある種、奴隷商人のような鷹揚さを見せて、彼らと抱擁を交わしてまるで舞台の演者の一幕のようだった。その中から30代とおぼしき男女2人が歩み出て、紹介された。片言の日本語からキャンプでの世話役兼教官と思われる様子が伺えた。その日はキャンプの司令官や在地の支援者らと内々の宴会のようなものに招かれ、歓迎を受けたが4人とも早々に切り上げさせられて、煉瓦積み2階立ての建物の一室に放り込まれ、簡易ベッドで倒れるように皆眠りに付いた。思えば、あの宴会で飲まされた物に何か入っていたかもしれない。次の日からは、午前中は本格的な軍事訓練を行っている集団を横目で見ながら、身体を慣らすような運動が続き、午後はコーランの詠唱、ハーディスの話し、そして、銃や爆弾の組み立ての実技を繰り返し行った。数日経つと午前中は、銃や手榴弾を利用した都市戦想定の攻撃と退避の訓練を繰り返し、午後は変わらず同じ、その頃教授はいつの間にか日本に帰っていた。そして、僕ら4人は2人づつに分けられ、それぞれの課程(?)に進んでいった。しばらくして、2人が戦死したことを知らされた。あまり深い付き合いは無かったが、日本人がイスラム兵士(改宗したこともその時知らされた)として死んだことにショックを受けた。でも、教官役の2人が無言で抱き締めてくれたことで、改めてこの国の苦難と断絶を感じた。そして、自分たちが彼らと同様に自爆テロ要員であることを知ることとなった。
…もっと見る
はじめての方限定
1か月無料トライアル実施中!
登録なしですぐに聴ける
アプリでもっと快適に音楽を楽しもう
ダウンロード
フル再生
時間制限なし