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説明文

入院中の母を見舞うために田舎に帰る支度をしていたその日の朝 実家で母の面倒を看ていた兄から電話が入った。‘…。そう…分かった。すぐ行く’ 横須賀から田舎まで3時間。新横浜から新幹線に乗りいつも通り喫煙ルームのある15号車で出発後と到着前に一本ずつ煙草を吸う。この三ヶ月間週に一度の帰郷でのこれがルーティンになっていた。何も変わらない。新幹線の窓から眺める流れゆく景色も僕も。ただひとつもう動かすことも避けることも出来ないひとつの事実だけが心の何処かに小さな氷柱を作っていた。 田舎の駅に着いた頃には母はすでに駅から歩いて10分ほどの葬儀会場へと手際よく運ばれていた。母と対面する間もなく待ち構えていた兄と姉と三人で葬儀スタッフとの打合せが始まる。通夜と告別式の日程と時間の確認。弔問客に出す弁当や引出物の種類などの雑多な決め事がてきぱきと事務的に進められていく。そう。すべては事務的に。明日の朝母は顔に化粧を施され翌日の午後には乾いた骨片のひと塊へと姿を変えるだろう。すべてはタイムテーブル通りに。 打合せが終わってようやく隣の会場の祭壇の前に横たわる母に会いに行った。顔を覆う白い布をめくって一週間ぶりの母の顔を見た。それは苦しみを乗り越えた後の穏やかな顔だった。‘きれいな顔してる。ほんとに眠ってるみたいだな…’ 僕は横にいる姉と眠っている母に話しかけた。 僕は少し顔を近づけてこれで見納めとなるはずの母の素顔を目に焼きつけるようにじっくりと観察した。その時だった。母の片方の目頭に微かに光る涙の小さな粒を見つけた時 不意に僕の心に突き刺さったままの氷柱が溶け出して大粒の涙となって目から溢れ出した。 とどまることを知らない涙とともに巨大な奔流となって僕の胸に押し寄せたものは母に対する紛れもない愛おしさだった。 その時ようやく僕は失くし物を見つけたように不意に甦った素直な感情で初めて母に別れを告げることができたのだと思う。 そして今僕はこの場面にひとつのささやかなフィクションを付け加えておきたい。 母とのこの最期の別れの間ずっとそこには微かな薔薇の薫りが漂っていたのだと。…素敵な薫りだった。 そんなふうに僕は人に話し続けそれは一人の虚言症の男のそれのように僕の記憶に刷り込まれていく。そしてそれは母の死と別れを微かな薔薇の薫りとともにより美しい記憶として僕の心に刻まれるだろう。 〈2019/10/26〉
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