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元祖は、DJ Tameil #8は、#7の元ネタ ミッコちゃんありがとん😊 👇Jersey Club Vol.1もどーぞ "Jersey Club Mix Vol.01 Now" by Almond Eye🥕 on AWA https://mf.awa.fm/3ZCZhXc 👇DJ Tameil FB https://www.facebook.com/DjTaMeiL/ だいたい、流れはこんな感じ Chicago House Hip-House UK Rave ↓ Maiam Bass▶︎Baltimore Club▶︎Jersey Club ↓ Atlanta Bass 👇Jersey club: ニューアークから世界へ https://jp.ra.co/features/2417 ジャージー・クラブと呼ばれるようになる前、それは単純に“クラブ・ミュージック”と呼ばれていた。 上の世代のジャージー・クラブDJの多くは、90年代後半にジャージーで人気だったシカゴ・ハウスをクラブ・ミュージックと呼んでいた。 ニューアーク出身のTameilは同シーンの最初のスターであり、10代の頃、シカゴ・ハウスのカセット・ミックステープを配って名前を売ったDJだ。 そして、これまた初期から活動していたニューアーク出身のTim Dollaも、ターンテーブルでハウスのレコードを回してDJを学んだ。 1999年、Tappの"Shake Dat Ass"や"Dikkontrol"といったボルチモアのトラックが大いに人気を博していたが、この"Dikkontrol"のキックのパターンこそが、ジャージー・クラブのリズムの原型となったのである。 ボルチモアはニューアークからほんの数時間南下したところにある街。 Nix In The Mix、Mustafah、Torry T、Mista QuietmanといったDJたちはこのクラブ・ミュージックをニュージャージーに紹介する役目を果たしたが、彼らはミックステープを作ったり、プロデュースをするといったことをしていなかった。 当時、レコードを手に入れるのは今よりも随分と難しいことであった。 2000年には、ボルチモアがニュージャージーで最も求められるクラブ・サウンドになっており、Tameilは他のDJよりも一足先にこのサウンドに注目していた。 彼は手に入れることができたレコードに表記されている電話番号に片っ端から電話をかけ、Music Liberatedというレコード店のBernie Rabinowitzとコネクションを作るなど、ボルチモアとのパイプを作った。 Bernieは彼にDJ TechnicsやRod Leeという、それぞれ自分の店を持っているようなボルチモアのビッグネームたちを紹介した。 だがTameilはすぐには受け入れられなかった。 「彼らは、“ジャージーの野郎にいったい何ができるっていうんだ?”っていう表情で俺を見ていたね」と、Tameilが語る。 「しかしそのうち俺が本気だということを解ってくれた。俺のCDが向こうのフリーマーケットで売られるようになって、ボルチモアの人が聴くようになった。 “これだれだ?おお、お前じゃんか!”とか言われて、“言っただろ、俺は本気だって!”って感じだったよ」 他のDJたちはTameilに追いつこうとしたが、彼のミックスにはアーティスト名がのっていなかったため、DJ達はボルチモアのアーティストが誰なのか解らないでいた。 Dollaと、彼の高校の同級生であり現在ニューヨークのトップ・ラジオ局のひとつ、Hot 97のDJを務めるDJ Wallahは、Bernieの電話番号を手に入れ、電話ごしに曲を歌ってアーティスト名を教えてもらったり、おススメのレコードを送るようお願いした。 そのうち彼らはDJギグをもらうようになったが、ミックステープ・シーンを牽引していたのはTameilであった。 そして、Doughboy、Crime、Smooth KillahとJazzy Bからなるグループ、The OG'sと、Tameilがニュージャージーで最初にクラブ・トラックをプロデュースし始めた。 Tameilの初期のトラックは彼のミックスでしか聴くことができず、まだ粗の目立つクオリティであったが、シカゴとボルチモアのスタイルを融合させたサウンドであった。 9.11の直後、Tameilは自身のレーベルAnthrax Recordsから「Dat Butt」というボルチモア・スタイルのEPを自主的にリリースした。 その1週間以内に、The OG'sも「Official Ghetto Style」をリリースした。 DollaとMike Vはこの頃トラックを作り始めていたが、友人の車のトランクから手売をするしか売る方法がなかった。 彼らはTameilをリスペクトしたが、彼が市場を独占することは許せなかった。 だがレコード店は彼らのCDを置いてくれなかったため、ストリートで自分たちの名を広めることを決意した。 「高校の同級生を家に全員呼んで、ストリート・チームを結成したんだ」とMike Vは笑顔で思い出す。 「皆で同じTシャツを着て、CDを大量に持ってダウンタウンに乗り込んだ。 CDを売ってる人達が沢山いるブロード通りとマーケット通りの交差点の四つの角全てに立って、CDを売ったんだ。 向こうは追い出そうとしてきたけど、それでも売ってたぜ」 CDを焼くという行為は当時まだ比較的新しいことであり、Tameilは効率良く焼くためにタワー型のCDバーナーを購入した。 そして焼いたCDを彼はブロード通りの交差点の屋台で売った。 このエリアはニューアークの中心的なショッピング街であり、洋服店、電気屋、家電屋などで溢れていた。 とある日のことTameilは、TameilのトラックをTameilへのディスとしてリミックスされたものを、Mike Vのチームが流しているのを聴いた。 彼らはBrick Banditsという名前で活動していたことをそのとき彼は知った。 Dollaは、注目を集めるためにこのディス曲を作ったと語る。 「“どうやったら手っ取り早く名前が売れるだろうか?よし、奴をディスってやろうぜ”と話したんだ」。 その後もBanditsは数ヶ月、ストリートでCDを売り続け、この2グループの争いは続いた。 「どんどん手に負えない状況になってきてるって思った」とTameilは言った。 「向こうは本気で戦おうとしてる。すでにブラッズとクリップスとかギャングの抗争も起きてたし、その上これだ」 TameilはMike Vの家で話し合うことを提案した。 ひとりで家に出向くことに不安を感じたTameilは、装備して向かった。 「当時俺たちは皆若くて馬鹿だった。“何かあったときのため”と思って銃を持って行ったんだ。だがお互い、争いを求めていないと解って良かった。思っていた以上に良い結果になったんだ」と彼は笑った。 そして彼らは同盟を結んだ。 当初、Tameilは相手側の知名度を上げないためディスに返答をしなかったが、今度は知名度を上げるため、わざと応戦してみせた。 だが危険なムードが漂いだしたため、今度は、彼らはわざわざ人前で握手をし、争いに完全なる終止符を打った。その数年後Tameilは正式にBanditに加入したが、そのときから既に仲間であった。 この頃には、トラックを作るアーティストも増えており、まだサウンドが明確に定義されていなかったものの、このムーヴメントを拡大させるため、Tameilは2002年に“ブリック・シティ・クラブ”と命名した。まだこの街以外のアーティストがこのサウンドを作っていなかったため、ニューアークのニックネームであるブリック・シティがネーミングに用いられた。TameilはTim Dollaを街中のレコード店に紹介して回り、彼らでミックステープ・シーンを独占した。Banditsの初期のミックステープは、自分たちのトラックとボルチモア・クラブを組み合わせたものであり、前半はクラブで、後半はハウスといった構成であった。 この頃、デュアルCDプレイヤーが一般的になり、シーンの活性化に繋がった。TameilやThe OGs'のデビュー作以外で、正式にレコードにプレスされたものは無く、プロデューサーがDJに配ったCDに入っていたトラックや、ミックスCDから取ったものをブート盤として売った人がいた以外では、この音楽をレコードでリリースする人達もいなく、CDでDJをすることができることはDJとして必須であった。初期のCDJではスクラッチはできなかったが、ミックスをすることは可能であった。しかしこういったトラックはまだバラで売られることはなく、もし音楽を作っている人と知り合いではなかったら、ミックステープを購入して楽曲を手に入れるしかなかった。 クラブ・パーティーは主に舞踏場や宴会場で行われ、ニューアークや近隣のイースト・オレンジ、アーヴィントンといった街で盛んになった。こういったイベントはよく“ハイスクール・パーティー”と呼ばれていた。2003年になると、こういったパーティーに来るキッズたちが求めるサウンドは、もはやブリック・シティ・クラブのみであった。ニューアークのDJはニュージャージーとボルチモアの間に位置するフィラデルフィアでもDJのオファーを受けるようになっていた。 この頃、ボルチモアのBernie Rabinowitzが他界した。クラブ・ミュージックにとって大きな損失となり、ニュージャージーへのボルチモアの音楽の流れがピタっと止まってしまった。「音楽が手に入らなくなったんだ」とDollaが言う。「ハイスクール・パーティーでDJしていて、キッズたちがこのスタイルを求めるんだが、俺は古いものしか持ってなかった。結局流れが止まったまま、数ヶ月が経ち、一年経った」 すると、ニュージャージーのアーティストたちは、その穴を自分たちの音楽で埋め始めた。Tameilはまだボルチモアから楽曲を仕入れていたが、そろそろ次のステップへと進むべきだと決心した。「俺たちだけでやっていけるって思ったんだ」と彼は言う。「俺たち皆、トラックを作っていた」。The OGs、The Bandits、そしてTameilはそれぞれトラックを作っており、すでに独自のムーヴメントが巻き起こっていたのである。「あるときDollaとBlack MicがCDを焼くために家に来たんだけど、そのとき俺は“やろうぜ”って言ったんだ」 当時のニューアークは現在ほど危険ではなかったが、それでも暴力的な犯罪率は全国の平均値の倍であり、パーティーを主催する人達は、意識的にイベントから暴力を廃除する努力をしなくてはいけなかった。プロモーターや会場によって基準は様々であったが、Branch Brookスケート・リンクやBanditsが主催するパーティーなどは若者が楽しめる安全な空間であった。 「自分たちの普段からの態度とかも大きく関わって来るし、Banditsとしての活動の仕方も大きく左右した」とMike Vが説明する。「Banditsの一員になるには、ギャングと関わることは禁止だったし、ガン・ミュージックをプレイすることも許されなかった(作ることは可能だが、パーティーではかけない)。そういった若者たちを知っていたから、“そういうことをするなら、うちのパーティーに来るなよ。来るなら楽しみに来い”って言っていた」 「当時のパーティーは健全だったよ」とWallahが言う。「手に負えないことが起こることはない、安心できる場所だった。確実にキッズをストリートから守っていたね」 シーンの人気は上昇する一方、成長を食い止める別の要因が現れた。当時ブリック・シティ・クラブを作っていたプロデューサーの多くが、大学に行くためや、日々の生活を優先するために、次々とシーンから離れて行ったのだ。すでに音楽でお金を稼いでいたDollaとTameilのみが、シーンに残っていた状態が1年以上続いた。Tameilは音楽のほうが儲かったため電気技師の弟子を辞めたが、Dollaはあまり選択肢がなかった。「Banditsはもう俺だけが背負っていた」と彼は思い出す。「俺は生きて行くために、そして娘におむつをはかせるために音楽をやっていた。1年半家に籠り、パソコンに向かってトラックを作りまくったよ。引きずり出されないと家から出なかったぐらいだ」 Mike VがTameilやDollaにSony Acid Proのことを教えたことがきっかけで、ニュージャージーでクラブ・ミュージックを作るプロデューサーにとってこれが定番のDAWとなった。FL Studioでトラック作りを覚えたり、他のソフトで補うプロデューサーも少なくはないが、主流はAcidであった。ユーザーインターフェイスが使い辛いなどの批判もあるが、サンプルネタのチョップの仕方などが支持されており、結局このソフトに落ち着くプロデューサーが多かった。そしてコラボレーションをする際にも、皆が同じソフトを使用することは強みであったことは間違いない。 以下略 👇ジャージークラブとは? http://www.yogaku-databank.net/jersey-club/ ジャージークラブとは、Baltimore club(ボルチモア・クラブ)=略してBmore(ビーモア)をルーツとしてニュージャージー州ニューアーク市で生まれた、米国発のBass Music(ベースミュージック)であり、ブレイクビートの1ジャンルです。 スタッカートでヘビーなベースを使うヒップホップのスタイルの一つで、80年代にボルチモア・クラブで大きな影響を与えたDJ Tameil(DJタメイル)(後にBrick Banditsに参加)、Brick Bandits(ブリック・バンディッツ)(Mike V、DJ Tim Dolla、DJ Black Mic)とThe OG’s(Doughboy、Crime、Smooth Killah、Jazzy B)がパイオニアであると言われています。 ジャンル初期においては、自分たちのトラックとボルチモア・クラブを組み合わせたもので、ハウスともミックスされていました。 この新しいジャンルは、当初 Tameil によってBrick City club(ブリック・シティ・クラブ)と命名されていましたが、ニューアーク以外の街でも盛んになるにつれ、Jersey Club(ジャージー・クラブ)と呼ばれるようになりました。(※Brick City…ニューアーク市の愛称) またサウンド的には、徐々にビーモアからかけ離れたものになってゆき、テンポはBPM135ぐらいまで上昇、Nadus、Sliink、JayhoodといったDJも活躍し始めました。 2008年頃からは、ラジオ等のメディアでもオンエアされるようになり、NYのアンダーグラウンド・パーティーでプレイされるなどニュージャージー州以外の地域のエレクトロニック・ダンスミュージック・シーンに注目されるようになりました。 2010年代中盤には、ノルウェー出身のCashmere Cat(カシミア・キャット)やLido(リド)が取り入れ、 ロサンゼルスでは“LAクラブ”というスタイルが登場。 Diplo(ディプロ)の主宰レーベルMad Decent(マッド・ディセント)やSkrillex(スクリレックス)らのサポートによって、EDMやTrap(トラップ)愛好者の間でも好まれるようになり、 BrenmarやNight Slugsクルーなどのベース・ミュージック系のアーティストたちが自身のスタイルとの融合を始めるまでに至りました。
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