音楽って 良いですね。😊
ガロの3人のうち2人がすでに亡くなっています。
真ん中にいたトンボ眼鏡の堀内護(通称・マーク)さんは、胃癌が見つかってから亡くなるまで早かったようです。2014年12月9日没。享年65。
日高富明(通称•トミー)さんは、1986年9月20日没。享年36。自ら死を選んだようです。若すぎます。
以下は、おとらんだむ968(事情あり非公開)に書いた文章です。内容、少々変えました。
『1973年のこと』
最近、歳のせいか昔のことを思い出します。
純文学に芥川賞、大衆文学に直木賞があるように、芝居の台本、戯曲には岸田國士(きしだくにお)戯曲賞があります。
50年ほど前の1974年の岸田國士戯曲賞は、
①清水邦夫「僕らが非情の大河をくだる時」
(劇団 櫻社)
②つかこうへい「熱海殺人事件」
(劇団 『暫』)
の二つが同時受賞でした。
あと、
③清水邦夫「泣かないのか、泣かないのか1973年のために」
という戯曲は賞の候補だった様です。
①の演出は後の世界のニナガワこと蜷川幸雄、俳優の石橋蓮司や蟹江敬三らが出演
②の演出は向島三四郎 and/or 知念正文。俳優の風間杜夫、平田満、三浦洋一らが、つかこうへいの舞台に出たのはこの後くらいだと思います。
つかこうへいは慶応でしたが、早稲田で芝居をやっていました。つかこうへいも在日韓国人です。
①は残念ながら観ていません。
②は早大六号館屋上アトリエで、1973年頃に観て、そのあまりの見事さ、面白さにびっくりしました。
1973年、韓国籍の私は大学に入学しましたが、早くも卒業してからの進路に悩み始めました。
当時はまだ日本に帰化するかどうか決まっていず、日本社会の在日韓国人への差別・偏見が今よりひどく、卒業してもほとんどの日本の大企業の就職試験すら受けさせてもらえない状況でした。
東大の理科系を出ても、在日はソニーや東芝などの企業の就職試験さえ受けさせてもらえませんでした。英語は好きでしたが在日のままでは日本の学校の教師にはなれませんでした。
母親が在日韓国人の松田優作もこの辺りに悩み苦悩、葛藤していたことが松田優作のwikipediaに少しですが、書いてあります。
その後、私の家族は日本に帰化、日本国籍を取得しました。
私は父親は韓国、母親が日本です。
父親が在日でも嫌だなぁと思ったことはありません。
今までの人生、バッチグ~☺️😁😄😌😙😚😏🤔🤗
泣かないのか、泣かないのか1973年のために
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1973年、いまから50年前です。
(この項、終わり)
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