「錦瑟」
1.錦瑟無端五十弦
いま、ここに、奏すべき人をうしない、空しく残された錦模様の大琴がある。昔、伏羲氏は、その音調のあまりの悲しさゆえに、五十絃の瑟を壊したというが、はからずも、この錦瑟はそれに一致する五十絃のものである。
2.一弦一柱思華年
その数多い一線一線の絃、それを支える一つ一つのことじに、私の華華しかった日日の記憶がかかっている。たとえ絃は絶ち得ても、こわせないだろう愛の思いが。
3.莊生曉夢迷蝴蝶
昔、荘子は蝶になった夢を見て、その自由さに、暁の夢が醒めてのち、自分が夢か、蝶が夢なのかを、疑ったという。夢のようだった愛の生活は、醒めざるを得ぬ今も、独りとり残された我が身の方を却って疑わせる。
4.望帝春心托杜鵑
また昔、望帝は、肉朽ちて後も、春のように萌えるその思いを杜鵑(ホトトギス)に托したという。愛の執着は、そのように、昼夜を分かたず哀鳴する鳥の声となって残るのだ。
5.滄海月明珠有涙
思う、昔。あなたがこの錦模様の瑟を爪弾いた時、私はその音色を聴きわけるよき鑑賞者だった。奏するあなたのこころが海の彼方に向かう時、私はすぐさま、月の煌煌と照る滄海を思い、
6.藍田日暖玉生煙
あなたの思いが山にある時、また直ちに、その音は玉山に暖かく日の射すようだと指摘したものだった。
だが今は、月夜に思い浮かべる滄海にも、かの人魚の涙珠のように、面影はひたすら涙をのみしたたらせ、白昼の夢にその姿を追えば、かの紫玉の如く、抱くより先に烟と化して燃えうせる。
7.此情可待成追憶
だが、思い廻らせば──この失意、朦朧としてあやめも知れぬ私の思いは、今追憶をなすこの時間において、始めてそうなったのだろうか。
8.只是當時已惘然
そうではない。何故なら、いま見定め難きものは、昔においても見定め難く、あの当時からして、はやすでに私たちの現実が朦朧としていたのだったから。
(高橋和巳訳 一部改)
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