こんな時。「私」が公園のベンチに座っている。目をつぶると、子どもたちとお父さんの遊ぶ声。母親たちのおしゃべり。噴水の水の音。暖かいな日差し。そして、「私」はその暖かさが引き潮のようにゆっくりとどこかに去ってゆくのを足元に感じる。無為な時間。周りは動いているのに「私」はそれを見てさえいない。少し寒さを感じて目を開ける。子どもたちも、母親も噴水の水すら無くなっていた。思い出に責められるままにベンチにいると、目の前の影という陰が、そこに置き去りにされて震えているわずかな温もりをのみ込んでゆく。もう公園は世界からその意味を無くし、幕間に引き上げられたはりぼての背景のように見える。「私」はそこから静かに振り返る。街灯と分譲住宅用地に生活の灯りが灯り、夕飯を作る匂いが届く。子どもがお風呂には入っている。自分の過去がそれを教えてくれる。「私」はベンチから立つ。それには立つという以外に意味はない。そこに残された染みのような温かさがあっという間に闇にのみ込まれたようだった。ポケットの中の鍵を確かめ、アパートの階段を上り、軽くて薄いドアが静かに開く。誰に求められることもなくそこに入る。小さな玄関に立つと、そこから「私」の生活は全て見渡すことがてきる。私は何者なのだろう。そう思うけど、それを思うには、あまりにも時間が経ちすぎた。TVとスマホをつければ、あと何時間かはそれを無為に忘れられる。考えると、TVもスマホも、幸せ、不幸、金持ち、貧乏、孤独、忙しさ、から逃れられるいい道具だ。そこにいるだけでいい。見る時には何も考えない。消すときも軽いため息でいい。独りで可笑しさを感じながら立ち上がり、冷蔵庫に向かった。「私」が今日一日を終える何かがそこにあるはずだった。
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