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説明文

<北ドイツ・オルガン楽派とは> 17世紀から18世紀前半にかけて北ドイツで活躍したオルガン奏者、作曲家の総称。sweelinkに始まり、遠くバッハで完成。 <歴史的背景>     ハンザ同盟により経済的に繁栄していた17世紀北ドイツの諸都市では早くからプロテスタンティズムが浸透し、30年戦争の最中にあっても、多くは政治的中立を保つことで、甚大な被害を免れることができた。マルティン・ルターは、「音楽は神の素晴らしい賜物であって、本来神に発するものであり、優れた音楽は様式を問わず神を讃えうる」とし、自らプロテスタント教会の会衆歌であるコラールを創作して、プロテスタント教会音楽の基礎を築いた。諸都市は競うようにオルガンを新設し、バロック時代の新たな作曲様式を身につけた若い音楽家を招き寄せた。     18世紀に入ると、啓蒙主義の台頭とともに、音楽の領域でもより軽やかで優美なギャラント様式が流行し、重苦しいオルガン音楽の優位性は失われた。 <特徴>     北ドイツ・オルガン楽派の作品は、前奏曲、トッカータ等の自由曲と、プロテスタント教会のためのコラールのオルガン編曲とに分類される。即興的な形式の自由な取扱い、しばしば破格を伴う充実した和声進行と鋭い声部間の対比、高度な足鍵盤の演奏技巧。 <Jan Pieterszoon Sweelinck (1562-1621)>     ネーデルラント鍵盤楽派の発展の頂点。初期バロックのオルガン音楽を代表する作曲家はオランダのスウェーリンクとイタリアのフレスコバルディ(フレスコバルディに学んだフローベルガーはウィーンを中心に南ドイツのオルガン音楽を発展させた。北ドイツオルガン学派とこの2つの流れはバッハ、ヘンデルに受け継がれた)。バッハへ至る豊かなオルガン音楽の源であることから、「ドイツ・オルガン音楽の父」と呼ばれている。その作品は同時代のイギリス、イタリア、スペインの音楽語法が見事に統合され柔らかな光を放っている。フランドル楽派の末裔とも見なされ、声楽曲にも熟練。また、即興演奏の大家であり、「アムステルダムのオルフェウス」とあだ名された。     豊かさや複雑さ、そして空間的感覚と、装飾や堅苦しくない形式とをまとめ上げた。例えば、オルガンのためのフーガは、単独の主題で単純な始まり方をして、順次テクスチュア(響きの密度)を増やして複雑化しながら、最終的なクライマックスと解決にたどり着く。この発想はバロック時代の晩期にバッハによって完成された。     門人に北ドイツ・オルガン楽派の作曲家、プレトリウスやシャイデマン、ジーフェルト、ザムエル・シャイトやゴットフリート・シャイトを輩出し、「オルガニスト製造家」と呼ばれた。 <Heinrich Scheidemann, 1595年頃 - 1663年>     スウェーリンクの愛弟子の一人であり、17世紀半ばの北ドイツで最も有名なオルガンの作曲家。 <最盛期>     北ドイツ・オルガン楽派の最盛期は17世紀後半においてであり、ハンブルクではヴェックマンやラインケンが代表者となる。 <Matthias Weckmann, 1616年頃  - 1674年>     ドレスデンでハインリヒ・シュッツ(シュッツは青年時代にイタリアに留学)率いるザクセン宮廷楽団において、少年聖歌隊員として音楽教育を受け、ハンブルクの聖ペーター教会にて、ヤーコプ・プレトリウスにオルガンを師事。フローベルガーとは親友。歴史の中に埋もれた作曲家。     シュッツの進歩的な傾向に従っており、コンチェルタート様式や濃密な半音階技法、ラプソディックな経過句や強い不協和音、対位法的・動機的な複雑な作風。イタリアのフレスコバルディに由来するトッカータ、カンツォーナ等も多く作曲。 <Johann Adam Reincken, 1643年 - 1722年>     シャイデマンの弟子。ブクステフーデとともに北ドイツ・オルガン楽派の隆盛を築いた。即興演奏が得意で記譜に関心が低く、晩年の作品集のほとんどが消失しているため、わずかな作品しか残していないが、長大なコラール幻想曲『バビロンの流れのほとりで』は、北ドイツ・オルガン楽派の多様な作曲技法を結集した傑作。足鍵盤を要するヴィルトゥオーソ的技巧で華麗。各節が歌詞の変化にあわせて断片化され、幻想的なパッセージ、付点リズム、カンツォーナ風の模倣、厳格なカノン等、多様な手法で装飾。特に終結部では、両足を使用することで声部数が拡大され、華麗なカデンツァが形成されており、手鍵盤における頻繁な両手交差等とともに、高度な技巧に基づく高い演奏効果が追求されている。     オルガン演奏のみならず、新設・改修されたオルガンの鑑定においても優れた才能を発揮し、17世紀後半におけるハンブルクの経済的・文化的繁栄を体現する存在。ラインケンの許には多くの音楽家がその薫陶を受けるために訪れた。またパンブルク・オペラの創立者の1人として名を連ね、オペラに対する関心を持ち続けた。音楽理論に対する関心も深く、スウェーリンクやアレッサンドロ・ポリエッティの作曲教程の筆写本を所有していたのに加え、二重対位法等に関する理論的著作を残している。     大バッハは、1720年にハンブルクを訪問した際に、『バビロンの流れのほとりで』に基づくコラール幻想曲を即興で演奏し、「すでに死に絶えたと思っていた技法があなたのうちに生きていた」として、晩年のラインケンを痛く感動させた。 <Dieterich Buxtehude 1637年頃 - 1707>     北ドイツ・オルガン楽派の頂点。即興的、流動的な性格が強く、内面的な情念の迸りを感じさせる一方、シャコンヌ、パッサカリアといったイタリア、南ドイツで発達した様式も巧みに取り入れた。その即興的・主情的な作風はスティルス・ファンタスティクス(あらゆる制約から解放された様式)の典型とされている。     大バッハは20歳の頃アルンシュタットの教会でオルガニストとして務めていたが、ブクステフーデの音楽を聴くため4週間の休暇をとり、400km歩いてリューベックまで行き、無断で4ヶ月近く滞在した。更に戻ってきてからは、オルガン演奏にブクステフーデの奇妙な変奏や多くの耳慣れない斬新すぎる音を混入させたとして教会から強く叱責された。     BuxWV161は、後にブラームスが関心を寄せた。
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