AWA

INTRODUCTION

Track byBOØWY

43,382
290
  • 0:36
AWAで聴く

歌詞

『MORAL』(モラル)は、日本のロ ックバンドであるBOØWYのファース トアルバム。 『MORAL』 BOØWY の スタジオ・アルバム リリース 1982年3月21日 録音 1981年 STAR SHIP STUDIO STUDIO BIRDMAN ジャンル ロック 時間 31分56秒 レーベル ビクター音楽産業/Invitation プロデュース 渡辺モリオ(マライア) 1979年、ヤマハ主催のアマチュアロ ックバンドコンテスト「EAST WEST」にて、氷室狂介が松井恒松 らと結成したバンド「デスペナルテ ィ」が関東・甲信越大会にて優勝し 、中野サンプラザで開催される全国 大会に出場するため上京する。同時 期に、楽器店主催のコンテスト「A ・ROCK」にて、布袋寅泰が後にBOØ WYのマネージャーとなる土屋浩等と 結成したバンド「BLUE FILM」で優勝し、日本青年館で開 催される全国大会に出場するため上 京する[1]。この当時、氷室と布袋 はお互いに面識はあったものの、直 接の交流はあまりない状態であった 。 その後、全国大会にて入賞を果たし た氷室は、音楽事務所ビーイングと 契約。しかし、バンドとしての活動 は中止となり、事務所の意向により 既に活動していたバンド「スピニッ ヂ・パワー」のボーカリストとして の参加を余儀なくされる。 1980年9月5日、シングル「HOT SUMMER RAIN」をリリース、 TBS平日の歌謡番組「11時に歌い ましょう」や「NTY紅白歌のベスト テン」にテレビ出演を果たすなどプ ロとしての活動を行っていたが、記 録的な冷夏の影響もありヒットに至 らず、メンバーと事務所間との協議 の末、解散となった。 その後、事務所にロックバンド結成 を申し出て、許可を得るも、メンバ ーを自分で選定するよう要求された 氷室は、それまで交流のなかった布 袋に連絡をし、バンド結成の話を持 ちかける。当時布袋も自身のバンド が空中分解し宙ぶらりんの状態であ った為、バンド結成に同意する。そ の後、オーディションを行うもメン バーとして相応しい人材が見つから ず、かつてのバンド仲間である松井 恒松からのバンド参加への連絡を機 に、氷室、布袋それぞれの人脈から の選定へと変更し、ギターとして諸 星アツシ、サックスとして深沢和明 の参加が決定する。ドラムスには「 スピニッヂ・パワー」から木村マモ ルが参加し、バンド名を「暴威」と 名付け活動を開始した。 バンドとしてのリハーサルを何度も 行い、デモテープを作成しては事務 所に対し交渉を行い、ついにはアル バムのレコーディングが決定、暴威 として初のレコーディング作業が開 始することとなった。 しかし、レコーディングの終盤にな り、ドラムスの木村マモルから「プ レイヤーではなくプロデューサーと して活動したい」との申し出があり 、バンドを脱退する意向を示される 。そのため、知人を介して、高橋ま ことが新たなドラマーとして参加す ることとなる。プロデュースは当時 「マライア」というグループで活動 していた渡辺モリオが担当した。マ ライアとはビーイング所属のスタジ オ・ミュージシャンによって結成さ れたグループであり、他に清水靖晃 、笹路正徳、山木秀夫らが参加して いた。渡辺はマライアメンバーとし て、『YEN TRICKS』でデビューを果たし、様 々なアルバムに参加していたが、当 時パンク・ロックに傾倒していたた め暴威のアルバムプロデュースを任 される事となった[2]。 レコーディング作業は1981年にスタ ーシップスタジオとスタジオバード マンにて行われた。 音楽に関する技術的な事を暴威メン バーが認識できていなかったため、 レコーディングは困難を極めた[2] 。当時陣内孝則率いる「ザ・ロッカ ーズ」が寺院で一発録りでレコーデ ィングした事が話題となるなど一発 録りが流行していたこともあり、本 作も楽曲はほとんどが一発録りで行 われ、歌入れも同時に行われている 。レコーディングを繰り返し、レコ ード会社へ音源を持ち込むも、理解 されずにリリースが決定するまでに 時間がかかっている[2]。 布袋は後に「アマチュアのミュージ シャンがスタジオで練習しているの をそのまま録ったようなアルバム」 と評し、「俺もとりあえず初めから 最後まで間違えなきゃいいというノ リでプレイしていた」と語っている [3]。 また、本アルバムの大半の曲のドラ ムは初代ドラマーの木村マモルが叩 いており、高橋まことが演奏してい るのは「MASS AGE」と「WATCH YOUR BOY」の2曲のみとなっている。2曲 目に収録されている「IMAGE DOWN」のイントロ等もライブでは サックスによるもので、深沢は全曲 で演奏しているが、レコーディング では「MASS AGE」しか演奏していない(コー ラスでは多数の曲に参加している) 。音楽情報サイト『CDジャーナル』 では、「サウンドはモロにニュー・ ウェイヴ仕様、現代でいうとハイブ リッド・ポップの範疇に入るのかも 」、「当初から氷室&布袋はメロデ ィ重視で楽曲制作していたことがよ くわかる」と記している[4]。 音楽情報サイト『ローチケHMV』で は、「ギラついたパンクサウンド」 、「ジャケットのルックスからもわ かるように完全にパンクバンド」、 「過激な歌詞が詰まったパンクサウ ンドが展開される」と記している[5 ]。 スタッフの月光恵亮は歌詞に関して 、「メッセージ性が強いのは、当時 のムーブメントの影響もあるけれど 、スピニッヂ・パワーやってた時の 氷室の不満が積もり積もって言葉に 出てきてるんだと思う。彼の書く言 葉は群馬弁とかも入ったままなんだ けど、リアリティーがあってそれも 面白いんじゃないかって、ほとんど 手直しをしなかった」と述べている [3]。パンク・ロック色が強く、歌 詞のイメージが汚いとレコード会社 側がリリースをためらっていたため 、1981年の夏に全てのレコーディン グが終了しているにも関わらず、同 年に本作はリリースされなかった[6 ]。 当初は、日本フォノグラム(現: ユニバーサルミュージック)よりデ ビューアルバムは発売予定だったが 、1982年3月にビクターよりようや くリリースされる事となった。 その直前にバンド名を「暴威」か ら「BOØWY」に変更した。レコード 会社側はBOØWYを当時流行していた パンク・ロックバンドの一つとして 売り出そうとしていたが、メンバー は本格的なパンクを目指しているわ けではなく、またアルバムがリリー スされるまでの半年間で音楽性が変 化していたこともあり、精神的に落 胆することとなった[7]。 氷室は後に「俺らとレコード会社と のコンタクトの取り方も下手だった と思う。全然コミュニケーションう まくいかなかったから」と語り、「 "ラスト・パンク・ヒーロー"ってい うコピーが付いたことによって、誤 解して集まってくる客に対して責任 取らなきゃいけないわけじゃない。 その頃、俺はウルトラヴォックスと かの物憂いマイナー・メロディアス っていうのをやりたくてしょうがな かった。布袋もそうだった」と述懐 している[3]。当時は6人編成であり 、アルバムジャケットは6人で写っ たものになっている。 ボーカルの氷室は改名前の為、クレ ジットされている名前は「氷室狂介 」となっている。音楽評論家の市川 哲史は「『NO N.Y.』の下世話だけどロマンティ ックな世界観、がなりや調子っ外れ とは無縁の、氷室の『日本独自の正 統派』ボーカルの艶っぽさ、布袋の 英国ニューウェイヴへの『真摯な愛 情』に満ちたスマートなアレンジ。 そのどれもが日本パンク・ロック史 上初であり、決して粗野なだけじゃ ない『文系』感を持っていたからこ そ、スタイリッシュな香りが漂って いる」と述べている[8]。BOØWY 氷室狂介 - ボーカル 布袋寅泰 - ギター、キーボード、コーラス 深沢和明 - サックス、コーラス 諸星アツシ - ギター 松井恒松 - ベース 高橋信 - ドラムス 木村マモル - ドラムス スタッフ 録音 渡辺モリオ(マライア) - サウンド・プロデュース 星加哲 - ディレクター 小野誠彦 - レコーディング、リミックス・エ ンジニア 月光恵亮 - イメージング・コーディネーター 東元晃 - エグゼクティブ・プロデューサー アートワーク 月光恵亮 & MOONSHINE PROJECT - アートディレクション 月光恵亮 - デザイン KAZUNORI ISAKA - 撮影 TAMA CHAN - メイクアップ 長戸大幸(ビーイング) - エグゼクティブ・プロデューサー

このページをシェア

BOØWYの人気曲

BOØWYのアルバム

BOØWY
の他の曲も聴いてみよう
AWAで他の曲を聴く
はじめての方限定
1か月無料トライアル実施中!
登録なしですぐに聴ける
アプリでもっと快適に音楽を楽しもう
ダウンロード
フル再生
時間制限なし