遠くで鳴る「その音」 は、明らかに他の音とは 違っている。 あまりに違いすぎて、 音ではない別の概念と 捉えることの方が自然に感じる。 一般的に、 音を聞いて得られる情報は、 大きさ、大まかな出どころ、 高低から割り出せる振動数や 持続時間に限られる。 それに対し、「その音」 を聴覚が感知すると、 前途の情報に、音の形や輪郭、 軌道が加わる。 これは聴覚で得られる情報に、 視覚で得られる情報が 加わったようなものだが、 目で見るのとは違い、 あくまで音を聞いている 感覚がさらに拡張したような 体験である。 それだけでも異常だが、 他にもある。 音の振動は空間を進むにつれて、 無に収束する。 それは、振動が進むにつれて、 球面状に薄く広がることで エネルギーが小さくなり、 やがて熱に変換されることで 消えてしまうからだ。 対して「その音」 は、遠くにあるものが小さく 見えるように、 遠くに存在する時は小さく聞こえ、 近くなるにつれて 大きくなる(ここでもまた、 視覚的な情報が持つ性質を 有しているように思える)。 そして耳に届くとき、最大となり、 その後は役目を終えたようにそっと 収束する。 聞き手のためだけに 存在するかのように。