すべてはこの新聞広告から始まった。
リバティー・レコード 求む・才能!
アーティスト、コンポーザー、シンガー、ミュージシャン!
これが1967年6月にNME紙に掲載された時、多くの"才能"が名乗りを上げてきたという。その中には、のちにエレクトリック・ライト・オーケストラを率いるジェフ・リンや、作曲家マイク・バットなどの名前もあったが、注目すべきは、リンカーンシャー生まれの"詩人志望"と、ミドルセックス州ピナー出身のシャイなピアニストの二人であろう。
前者バーニー・トーピン、後者エルトン・ジョン。二人が初めて会話を交わしたのはロンドン、トッテナム・コート・ロードにあるランカスター・グリルというレストラン。時期はちょうどビートルズが『サージェント・ペッパーズ』をリリースした直後。この時、この場所で、ロックンロール史上無敵のパートナーシップが誕生したのである。
両者の名前が初めて並んでクレジットされたのは、ロング・ジョン・ボルドリーのヒット・ナンバー"Let The Heartaches Begin"のB面曲として使われた"Lord You Made The Night Too Long"。あれから34年。彼らの功績はビートルズをもレッド・ツェッペリンをも、セックス・ピストルズ、ザ・ジャム、ワム!、ザ・スミス、ザ・ヴァーヴ....そのすべてをも凌ぐこととなる。
いかんせんポップ・ミュージックの世界は出入りが激しい。が、その中でジョン/トーピンが誕生させた多数の楽曲は、ポップ・ミュージックの基礎中の基礎としてしっかり根付いている。"ユア・ソング(君の歌は僕の歌)"、"ロケット・マン"、"ダニエル"、"可愛いダンサー/Tiny Dancer"、"風の中の火のように/Candle In The Wind"、"恋のデュエット/Don't Go Breaking My Heart"、"僕を救ったプリマドンナ/Someone Saved My Life Tonight"、"サッド・ソングス"、"僕の瞳に小さな太陽/Don't Let The Sun Go Down On Me"、"サクリファイス"....リストは果てしなく続く。
新作『ソングス・フロム・ザ・ウェストコースト』は、二人の華々しいパートナーシップを21世紀へと導く作品であり、エルトンいわく「確か僕にとって40枚目ぐらいかな」。しかも、まさに最高傑作と呼ぶにふさわしい素晴らしい出来! エルトンの過去にはざっと思いつくだけでも『エルトン・ジョン3/TUMBLEWEED CONNECTION』、『マッドマン/MADMAN ACROSS THE WATER』、『ピアニストを撃つな!/DON'T SHOOT ME, I'M ONLY THE PIANO PLAYER』、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』、『キャプテン・ファンタスティック・アンド・ザ・ブラウン・ダート・カウボーイ』、『トゥ・ロウ・フォー・ゼロ』など傑作が存在する。『ソングス・フロム・ザ・ウェストコースト』はこれらと十分に肩を並べられる。それだけでも称賛に値するではないか。
実は、二人の長い歴史の中で一つだけ守られてきたことがあった。それは、曲作りは個別に行う、ということ。バーニーは歌詞を書き上げると、それを手紙かFAXかメールでエルトンに送っていた。それが二人の常だった。今回までは! そう、今回は違っていたのだ。
「バーニーはけっこうたくさん歌詞を書いてて、それを持ってニースまでやってきたんだ。そこから先は二人でやってみようって話しになった」
とエルトンが説明するように、バーニーは2000年夏、ニュー・アルバムの話しをするために、南フランスにあるエルトンの家までやってきた。二人には、次のアルバムの持つ意味、重要性がわかっていたのだ。だからこそ少しでも不完全なものは作れない。その決意は強かった。
「最大のポイントは、とにかく自分たちに厳しくあろうということだった。このアルバムが出る頃には、僕は54だ。とにかく強力なアルバムを作りたい。完璧にしたい! 今の自分にできる最高傑作にしたい。そして結果は? そのとおりのものができたと思ってる」
そう、その強い意志と厳しさこそが、『ソングス・フロム・ザ・ウェストコースト』を彼の作品史に残る傑作へと導いたのだ。"Ballad Of The Boy In The Red Shoes"の辛辣さ、"Emperor's New Clothes"の憂い、"American Triangle"の情熱、いかにもジョン/トーピン路線の名バラード"I Want Love"、そしてアルバムのラストを意気揚々と飾る"This Tans Don't Stop There Anymore"まで、すべての収録曲がそこにあるべきものばかりだ。
「今回は22曲書き、18曲レコーディングし、12曲残した。最後まで残った12曲は、互いの相性を考えたりして選んだ。オープニングの"The Emperor's New Clothes"は僕がピアノで歌っているだけのナンバーで、アルバム全体の流れを導く役割を果たす。僕としては『エルトン・ジョン3』や『マッドマン』を彷彿させる路線だと思っている。
「アルバムは、基本的にピアノとベースとドラムとギターだけの作りになっている。そこにパット・レナードとビリー・プレストンがオルガンを加え、3曲ほどではポール・バックマスターのストリングスが、"The Emperor's New Clothes"ではブラスが少々つけ加えられていて、"Dark Diamond"ではスティーヴィー・ワンダーがクラヴィネットとハーモニカを、"American Triangle"ではルーファス・ウェインライトが僕とデュエットをしている。以上!」
エルトン自身、このアルバムにかける情熱は相当なもの。その熱意が我々にも感染しそうだ。最近ではどうしても、いちセレブリティとしてのエルトン・ジョンばかりが目立っているが、エイズ基金やチャリティ・オークション、ファッション・ショーやゴシップ記事より先に、正真正銘のプラチナ級ロックンロール・スター、エルトン・ジョンがいることを忘れてはならないのだ。
1971年に"君の歌は僕の歌"の大ヒットでいきなりオーヴァーナイト・サクセスを手にしたエルトンだったが、その5年ほど前からプロ・ミュージシャンとしての活動を始めていた。ピアノ界の天才少年として鳴らし、初めて演奏活動を行なったのは、ピナーの自宅近くにあるホテルであった。その後ブルーソロジーというバンドの一員となるが、この頃のルーツは『ソングス・フロム・ザ・ウェストコースト』に顕著に表れている。 「"The Wasteland"というナンバーはヘヴィなブルースで、まるでロバート・ジョンソンのようだ。僕らしくないと思う向きもあるだろうけど、僕が最初にやったバンドがブルース・バンドであったことを忘れないでほしい。そう、ブルーソロジーさ。マディ・ウォーターズやJBレノアの曲なんかをやる、正真正銘のブルース・バンドだったんだ。ところが、僕はキーボーディストだったでしょう? どうしても12バー・ブルース以外のことをやりたくなっちゃうんだ。だって退屈だもの! ギタリストにとっちゃ楽しい音楽かもしれないけど、ピアノ・プレイヤーにとっちゃ最高につまらないんだよ! "Wasteland"は正確には12バーじゃないけど、たまにこういう曲をやると楽しいね。この手の音楽をアルバムでやるのはほんと久しぶり」
ブルーソロジーから件のNMEの募集広告へと繋がり、エルトンはオーディションでジム・リーヴスの曲を演奏したという。なんとも意外な選曲だが、どこかで何かがウマく絡み合ったのだろう。バーニー・トーピンとの運命の出会いへと発展する。そこから先はご存知のとおり。偉大なる歴史が築かれる。
しかし、バーニーと知り合ってもしばらくは、本名レジナルド・ドゥワイトのままセッション・ピアニストとして小遣い稼ぎを続けていた。60年代に参加した代表的なセッションにはホリーズの"He Ain't Heavy, He's My Brother"や、トム・ジョーンズの"Delilah"、スカフォールドの"Gin Gan Goolie"などがある。そして70年代に入ると、今度はリチャード・トンプソン、ジョン・マーティン、ニック・ドレイクなど有望なソングライターたちとデモ作りを行なった。今日、当時の超レアなデモ盤を買おうと思ったら最低でも1000ポンドは払うことになるだろう!
そしてこの頃のロンドンっ子はと言えば、ビートルズ解散のショックから覚めないまま、次のビッグ・スターを捜し求めていた。エルトンがそんな中、知名度を上げていくのにさほど時間はかからなかった。 1971年1月に"君の歌は僕の歌"がヒットするまでに、彼は『エンプティ・スカイ(エルトン・ジョンの肖像)』、『エルトン・ジョン』、そして画期的な『エルトン・ジョン3』という3枚のアルバムをリリースしている。さらに、ライヴ・パフォーマーとしての高い評価をすでに得ており、ラウンドハウスという会場ではTレックスの前座を、ロイヤル・アルバート・ホールではサンディ・デニーズ・フォザリンゲイの前座を務めた。
一度出始めると、エルトンのヒット攻勢はとどまるところを知らず、それに伴い彼はありとあらゆるところに出没した。人気テレビ・コメディ<モアコム&ワイズ・ショー>にゲスト出演したと思ったら、子どもたちに圧倒的人気を誇る<マペット・ショー>でミス・ピギーとデュエットしたり、ついには<トップ・オブ・ザ・ポップス>の司会にも抜擢された。その波はやがてアメリカにも押し寄せ、エルトン・ジョンは一躍世界規模での社会現象となった。
アメリカでのスタート地点は、LAの伝説のクラブ・ハウス、トゥルバドールでのショウだった。この時はシンガー・ソングライター、デヴィッド・アックルスのオープニング・アクトとしてステージに立ったのだが、この驚異の新人の噂はすぐさま町中に広まり、翌朝には一人のスターが誕生していた。そして数日後には、エルトンとバーニーがヒーローとして崇めるボブ・ディランやブライアン・ウィルソンがバックステージに挨拶に来るという、大変な事態が起こっていた。
1972年から75年までの間に、アメリカでなんと7枚のアルバムを連続ナンバー1に送り込むという偉業を成し遂げた。そのうち『キャプテン・ファンタスティック?』は、ビルボード誌のアルバム・チャート史上、初めて初登場1位をマークしたアルバムとして歴史に名を残し、その前にリリースされた『グレイテスト・ヒッツ』はアメリカだけで1300万枚の売り上げを記録。一年間に3枚のシングルをナンバー1にしたアーティストとしては、約10年前のビートルズ以来となった。
しかしなんと言っても、エルトンのスーパースター・ステイタスを世に知らしめたのは1974年11月28日、マジソン・スクエア・ガーデンのステージに友人ジョン・レノンが飛び入りした時であろう。これまで何千回とコンサートを行なってきたエルトンの脳裏にも、この日のことは今も鮮明に残っていると言う。もちろん、そこに居合わせた2万人のファンにとっても一生の思い出となった。そして結果的にこの夜のパフォーマンスは、ジョン・レノン最後のオン・ステージになってしまった。
こうして70年代の活動を振り返ってみると、楽曲のクオリティの高さは言うまでもないが、その圧倒的な生産性の高さにはただただ驚く。
「勢いに乗った、とでも言うのかな。仕事を始めて最初の5年間はともかくナイーヴで、計画性もなかったし、あまり考えてなかった。けれどその後勢いが増してきて、"すごい! ほんとにこんなことがあってもいいのか! 素晴らしすぎる。こんなにいろんな人に会えて、いろんな人と共演できて!"ってそんな気持ちだったよ。5年間で8枚のアルバム! その上シングル・カットにBサイド! 確かにとんでもない仕事量だけど、ぜんぜんそういう実感はなかったね」
アルバム作りに数年費やすのが当たり前になってきている昨今、信じられないような話しだが、実際『マッドマン』、『ホンキー・シャトウ』、『ピアニストを撃つな!』、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』、『カリブ』、『キャプテン・ファンタスティック・アンド・ザ・ブラウン・ダート・カウボーイ』、『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』、『蒼い肖像/BLUE MOVES』のすべては、1971年から76年までの5年間に考え出され、レコーディングされ、リリースされているのだ。
ただ、これほどまで過酷なレコーディング/ツアーの繰り返しは、当然、エルトンに損害をもたらした。そして80年代に入るとついにペース・ダウンを余儀なくされ、比較的おとなしい日々を送るようになった。とは言え、『トゥ・ロウ・フォー・ゼロ』、『ブレイキング・ハーツ』、『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』といった珠玉のアルバムを世に送り出した。そしてこの『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』をもって、エルトンはついに長年の夢を手に入れたのだ。それは全英シングル・チャートNo.1という栄誉。不思議なことに、彼は約20年の栄光の日々の中で、一度も母国の頂点に立ったことがなかった。唯一、1976年にキキ・ディーとデュエットした"恋のデュエット"が1位を獲得してはいるが、単独ではまだ。が、1990年にリリースされた"サクリファイス"でついに夢が叶った。そしてイギリスではこのシングルから(アメリカでは1992年から)、エルトンは全シングルの印税収益をエイズ関連のチャリティに寄付し続けている。
1994年、エルトンにとって新たなチャレンジが始まった。今度のパートナーはミュージカル界の大御所ティム・ライス卿。この新たなコラボレーションは実り多きものとなり、初めて手掛けたディズニー映画『ライオン・キング』のサウンドトラックは大成功を収めた。特に"愛を感じて/Can You Feel The Love Tonight"は人々の琴線に響いたことで大ヒットし、アカデミー賞ベスト・オリジナル・ソング部門でオスカーを受賞するという、ロック・スターにとっては稀な勲章を得た。その後『ライオン・キング』は映画の世界から飛び出し、ステージ・ミュージカルとして1997年にはブロードウェイで、後年ロンドンで上演された。
サー・エルトン、サー・ティムというロック界が誇る二人の"ナイト"は、その後も高い評価の作品を作り続ける。一つはアニメーション映画『エル・ドラド』、次はヴェルディのオペラ『アイーダ』のミュージカル・ヴァージョン。後者は、ジョン/ライス作の楽曲を、スティングをはじめスパイス・ガールズ、リアン・ライムス、ジャネット・ジャクソン、シャナイア・トゥエインなど、多種多様なアーティストが演じるという画期的な企画だった。こうなってはブロードウェイもエルトン・ミュージックの魅力にすっかり虜になり、『ライオン・キング』と『アイーダ』は一時期、ブロードウェイの人気ミュージカル1位と2位を独占するという、前代未聞の現象まで起きた。もちろん、後にも先にもそんな偉業を達成したのは彼らだけだ。
そしていよいよ20世紀も終わりに近づき、さすがのエルトンも少しぐらいペースダウンするかと思いきや、彼は自分でも驚くほどの情熱とエネルギーを持って作曲、パフォーマンス、レコーディングを続けている。
「まさかここまで一生懸命働き続けるとは思わなかったよ。90年代には3枚のアルバムを作った。『ザ・ワン』、『メイド・イン・イングランド』、『ビッグ・ピクチャー』。この3枚にはとても素晴らしい楽曲も含まれている。そして『ライオン・キング』の映画音楽が、後にはミュージカルもなった。あのぐらい大規模なミュージカルになると、場合によっては4、5年かかるんだよ。そして『アイーダ』のミュージカル、アルバム、『エル・ドラド』、さっき言った3枚のアルバム、ダイアナのシングル、映画会社....確かにはんぱじゃない仕事量だね!」
"ダイアナのシングル"とはもちろん、"キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997"のことだ。バーニー・トーピンが急いで書き換えた感動的な歌詞をエルトンがウェストミンスター寺院でエモーショナルに歌い上げた時、全世界で20億人がテレビ中継を見ていたと推定される。あれは、1997年9月のあの悲しみに満ちた一週間の中で、最も印象深い瞬間だったと言えよう。また、エルトンが葬儀と同じ日にレコーディングしたシングルは全世界で3300万枚の売り上げを記録し、ポピュラー・ミュージック史上だんとつのベスト・セラーとなった。
1998年、エルトン・ジョンはサー・エルトン・ジョンになった。イギリス国民も彼の功績を称え、新たなナイトの登場を歓迎した。しかしエルトン本人は、もちろんこの称号の重さをひしひしと感じ誇りに思いながらも、一人の働き者ロックンローラーとして、普段の名前で呼ばれるのを好む。将来の計画は?と尋ねると、こう熱心に語ってくれた。 「ヨーロッパやトルコ、モロッコでソロ・コンサートをやったあと、ラトヴィア、エストニアといった初めての国々を訪れたい。その後バンドとリハーサルに入り、アメリカやアジアでソロ・ツアーを行い、その後2002年には再びビリー・ジョエルと回ろうと思ってる」
21世紀に入ってもまったく疲れ知らず。それどころか、彼の情熱はこれまで以上に感じられる。すでに多くの記録を塗り替え、様々なアワードを手にしてきた彼が今、ここまで働き続けられる原動力とはいったい何なのだろう?
「54にもなって、こんな精力的にツアーするとは思わなかった。けれど、ほんとに楽しいんだ、ライヴは。ピアノとヴォーカルだけのツアーもとても好き。アメリカでは、これまでにないほど小さな会場で演奏して、とてもたくさんの町を回った。心が救われたような気がしたよ。これからも、この形でのツアーは続けていきたいと思ってる。もちろんバンドとツアーすることもできるし、ビリー・ジョエルとの大規模ツアーも可能だ。三つの選択肢。そうやって気分転換を図っていけば、ステージで退屈することはないよ。それぞれが形の違うチャレンジだからね。今は本当に毎日が楽しい。特にオン・ステージではね!
「多分、昔に比べ、ライヴをやることじたいが好きになったんだよ。こんな風に仕事を好きでいられる自分をすごく幸せだと思う。情熱は少しも失せていない。結局、僕自身が音楽ファンだからだろうね。1970年に最初に名前が売れた時からファンだった。その頃の気持ちは少しも変わってない。音楽を聴いていると今でも興奮する。それが自分の音楽であろうと他人の音楽であろうと、ね!」
それなら、今彼は最高に興奮しているはず。『ソングス・フロム・ザ・ウェストコースト』は、過去の名盤といわれる『エルトン・ジョン3』や『マッドマン』や『キャプテン・ファンタスティック?』に匹敵する、素晴らしい作品だからだ。
『ソングス・フロム・ザ・ウェストコースト』を作るにあたって、エルトンは自らの置かれている状況を再認識した。新たな世紀の始まりとはつまり再出発も意味する。その結果彼が行き着いたものは、ヴォーカルとピアノと小規模なバンドだけで組み立てる12の楽曲という、原点回帰とも言えるものだった。
また、普通彼ほどのステータスになると流行ものからは距離をおくものだが、エルトンは常にモダン・ミュージックに向けてもアンテナを張っている。彼の口からはライアン・アダムス、ウィスキータウン、ネリー・ファータド、ベースメント・ジャックス、アリソン・ゴールドフラップ、ニジン・サオウニーといった名前がぽんぽん飛び出してくる。その一方で、彼は自分のあるべき姿を知り、得意分野を熟知することを何よりも大事に思っている。
「我々の世代には、飾り気のないアルバムを世に出すのが怖いと思う人もいる。確かに、テクノロジーの進化と共に、何でもかんでもサンプリングしてしまおうという誘惑はある。誰だって新しいことにチャレンジしてみたいわけだし、どっかの誰かのアイディアをちょっといただいてみようって気持ちはどこかにあるはずだ。キーボードにこれだけいろんな音素材が用意されてるとつい、音を詰め込みすぎてしまう。けれど僕はどう考えても大したシンセ奏者じゃない。というか、あまり興味がないんだよ。ピアノの方がずっと好きだし上手。それに今回は、自分が一番得意だと思ってるところに戻りたかった。つまり、ピアノだよ。2年ほどピアノと歌だけのツアーをやってきて、それを一番良い形で利用したかった。さすがに2年もやってるとピアノは上手になったし、声もよく出るようになったし、利用しない手はない。だからバンドも簡素化したんだ。今はギタリストが一人しかいない。それ以上空きスペースがないんでね! アルバムでは空間の使い方が重要なんだ。でも、作ってる最中はついいろんなことやりたくなって、グルーヴ・アルマダとかアンダーワールドとか、好きなグループを真似したくなってしまう。
「でも、僕はグルーヴ・アルマダじゃなくてエルトン・ジョンなんだ! だからニュー・アルバムでは、できるかぎりエルトンらしくすることに決めたんだ!」
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