‘70年代~、’80年代、そして‘90年代と世代を越え、常にリアル・タイムで我々に歌い続けてくれるビリー・ジョエル。そしてピアノ・マン40周年、2014年を迎えた今、ビリー・ジョエルの名曲は時代を超えて生き続ける。
ビリー・ジョエルは、1949年5月9日N.Y.はブロンクスに生まれる。本名WILLIAM JOSEPH MARTIN JOEL。生まれて間もなく家族と共にロング・アイランドに移住した彼は、3才からクラシック・ピアノのレッスンを受け始めるが、エルヴィス・プレスリーを知りフィル・スペクターのサウンドに影響を受けると、その音楽的思考は次第にロックン・ロール、ソウル、R&Bへとその幅を拡げてゆく。当時エルヴィス、レイ・チャールズ、ジェイムス・ブラウン、オーティス・レディング、ロネッツ、サム&デイヴ等を聴いていたビリーはビートルズの出現により、自らもロック・アーティストとなる事を決意し、地元ロング・アイランドのクラブで、最初はピアノ弾きとして、そのキャリアをスタートさせる。
[1968−1970]
プロのレコーディング・アーティストとしてのデビューは、1968年であった。THE HASSLESというバンドでバンド名と同名のアルバムを(United Artistsレーベル)からリリース。翌年セカンド・アルバム「HOUR OF THE WOLF」を発表後、このバンドは解散するのだが、間もなくハッスルズのメンバー、ジョン・スモールと二人でATTILAを結成。1970年にはEPICレーベルからアルバム「ATTILA」を発表している。だがこれも全て売れず、生計をたてる為、この頃ビリーは評論家としての仕事もこなしていたという。
[1971−1976]
しかしビリーのロック・スターへの夢は消える訳もなく、ファミリー・プロダクションとのソロとしての契約にこぎつけ、1971年事実上のソロ・デビュー・アルバムとなる「コールド・スプリング・ハーバー」を発表。同時にバンドを率いてのプロモーショナル・ツアーを開始するが、契約上のトラブルで中止。数々のプロダクションとのゴタゴタから逃れ精神的なリフレッシュの為、ビリーは西海岸へ向かい、ノース・ハリウッドに居を構え、ビリー・マーティンの名でピアノ・バーに出演、ピアノの弾き語りを行うが、間もなく真剣に再スタートを切るべく、曲作りの為マリブ山中の一軒家にこもる。そしてCBSと契約し、1973年「ピアノ・マン」で改めてデビュー。この「ピアノ・マン」が50万枚を越すゴールド・レコードとなりキャッシュ・ボックス誌での新人賞を獲得。ここからビリー・ジョエルは“ピアノ・マン”のニックネームで呼ばれる様になる。
このヒットにより成功への足がかりを掴んだビリーは前作と同様、プロデューサーにマイケル・スチュワートを起用し、3枚目のソロ・アルバム「ストリート・ライフ・セレナーデ」を翌1974年発表した。この後、新たな決意とともにビリーはN.Y.へもどる。1976年ビリーはセッション・ミュージシャンではなく初めて、自分の仲間と呼べるミュージシャンとレコーディングを行い、自らのプロデュースにより「ニューヨーク物語」を発表。
[1977−1985]
翌1977年には念願のフィル・ラモーンをプロデューサーに迎え「ストレンジャー」を完成、発表。一気にスター街道を走り出すことになる。このアルバムに収録した“素顔のままで”は、翌年1978年の第21回グラミー賞に於いてRecord Of The Year(最優秀レコード)とSong Of The Year(最優秀楽曲賞)を受賞し、名実とともにトップ・スターの仲間入りを果たした。この年ビリーは地元N.Y.はマジソン・スクエア・ガーデン3回を含む全米ツアーも大成功。サクセスストーリーのスタートである。4月には初来日し東京/大阪の2公演も実現。その勢いはそのまま「ニューヨーク52番街」リリース(1978年)へ、このアルバムは見事ビリー初の全米No.1ヒットとなり、第22回グラミー賞でもAlbum Of The Year(最優秀アルバム)、Best Pop Male Vocal Performance(最優秀男性歌手賞)を受賞。1979年Billboardアルバム年間チャート第1位。‘79年5月、2度目の来日。
1980年、世界のロック、ポップ・シーンが様変わりする中、7作目にあたるアルバム「グラス・ハウス」を発表。ピアノ・マン~ロックン・ローラー、ビリー・ジョエルの心意気を示し、アルバムはたちまちプラチナ・ディスクとなり、シングル「ロックン・ロールは最高さ」の全米No.1を含む4曲の大ヒットがうまれる。ビリーは又‘80年グラミー賞最優秀ロック男性歌手賞を獲得。フィル・ラモーンも最優秀プロデューサー賞を受賞となる。ビリーのコンサート・ツアーも初めて中近東まで及び、マジソン・スクエア・ガーデン5回公演も即日完売となった。1981年にはアメリカ以外の国でのアルバム・セールスが500万枚を越え、クリスタル・グローブ賞をCBSレコードから贈られる。同年4月3度目の来日公演、さらに過去の作品群を新たに今日化した初のライブ・アルバム「ソングス・イン・ジ・アティック」を9月に発表し、「さよならハリウッド」等がシングル・ヒットとなり蘇った。
1982年4月ビリーはオートバイ事故を起こし、右親指と左手首を骨折、世界中のファンを心配させたが、9月には、現代アメリカが抱える社会的問題にもストレートに切り込んだ最も濃厚でハード・コアな作品「ナイロン・カーテン」を発表する。1982年10月に世界初のCDが発売されたが、それは「ニューヨーク52番街」(35DP1)であった。1983年8月「イノセント・マン」を発表、ファースト・シングル「あの娘にアタック」の全米No.1ヒットを皮切りに連続6枚のシングル・ヒットを放ち、ベスト・セラーになりアメリカだけでも当時600万枚以上のセールスを記録。よく1984年5月4度目の来日。この時同伴したクリスティと1985年3月に結婚。(12月には長女アレクサ・レイ誕生。94年に離婚)1985年4月に新曲2曲を含む初の2枚組ベスト・アルバム「ビリー・ザ・ベスト」発表。当時300万枚を超えるセールスを記録した。
[1986−1994]
1986年8月「ザ・ブリッジ」発表、このアルバムからは「マター・オブ・トラスト」又、ビリーの憧れのレイ・チャールズとの共演「ベイビー・グランド」等がヒットとなる。1987年ビリーはワールド・ツアーをスタート、6月には5度目の来日を果たし、7~8月にかけて行われた初のソ連公演では15万人の動員を記録し、ライヴ・アルバム「コンツェルト」として年末に発表された。
1988年8月6度目の来日公演を東京ドームで果たした後、新作レコーディングを開始、1989年10月プロデューサーにミック・ジョーンズを迎え久々のスタジオ・アルバム「ストーム・フロント」を発表。ファースト・シングル「ハートにファイア」が全米No.1に輝き、アルバムのセールスも600万枚を超えた。1990年アメリカ~ヨーロッパ~アメリカを廻るワールド・ツアーをスタート。1991年7度目の来日。そして、1993年8月、前作から約3年8ヶ月振り、通算15作目となる「リヴァー・オブ・ドリームス」をプロデューサーにダニー・コーチマーを迎え発表、全米チャート3週連続No.1を獲得した。1994年夏、エルトン・ジョンとのジョイント・ライヴを行い、N.J.のGIANTSスタジアムでの5公演もチケットは完売。大成功で終演となっている。
[1995−2000]
1995年1月リヴァー・オブ・ドリームス・ツアーで8度目の来日。この時大阪にて阪神大震災に遭遇し1/17の大阪城ホールがキャンセルになるが、スケジュールを押して1/19に振り替え公演を行う。
「リヴァー・オヴ・ドリームス」を最後に新曲中心のポップ・アーティストとしての活動から離れると宣言し、以降、クラシック作品、あるいはミュージカルを書く…など様々な噂がされていたが、1997年、ボブ・ディラン作の新曲“心のままに”も含むベスト盤「Greatest Hits vol..3/ビリー・ザ・ベスト3」をリリース。85年の「ビリー・ザ・ベスト1&2」以来12年ぶりのベスト盤で83年の「イノセントマン」~93年「リバー・オブ・ドリームス」に至るヒット曲+97年の新曲を収録したものであった。
1998年3月のエルトン・ジョンとのピアノ・マン・ツアー、初の4大ドームツアーでの9度目の来日を果たし、久々の素晴らしいパフォーマンスを日本のファンに見せつけてくれた。以降98年はエルトンとのピアノ・マン・ツアー終了後、単体でのワールド・ツアーを敢行。昨年1999年も2月から4月までビリー単体でのUSツアーを行い、その合間の3月にはブルース・スプリングスティーン、ポール・マッカートニーなどとともに遂に「ロックの殿堂」入り。夏には映画「プリティ・ブライド」に新録のカヴァー曲"WHERE WERE YOU (ON OUR WEDDING DAY)? "を提供、年末には2000 Years Tourと題し10回ほどの小規模なUSツアーを敢行し、最終日である12/31のミレニアム・ライヴをNYのMSGにて行い、その模様をレコーディング。2000年5月ビリーのアルバムとしては97年の「Greatest Hits vol..3/ビリー・ザ・ベスト3」以来3年ぶり、現段階での最新オリジナルアルバムである93年の「リヴァー・オブ・ドリームス」以来7年ぶりのニュー・プロダクツとなる、87年の「コンツェルト」以来13年振りのライヴ・アルバム『2000 Years-The Millennium Concert/ビリー・ザ・ライヴ~ミレニアム・コンサート』を発表。
2000年6月にはスミソニアン協会が主催するピアノ誕生300年『PIANO GRAND』にホストとして参加し、「ピアノ・マン」「ベイビー・グランド」をプレイしている。
20世紀を代表するソングライター/メロディメイカーであり常に我々のリアル・タイムのスーパー・スターとして、歌い続けてくれるビリー・ジョエル、彼の名曲は時代を超えて生き続ける。
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