クワイエット・ライオットが誕生したのは1978年を迎えたばかりのロサンジェルスだった。
ケヴィン・ダブロウ(VO.)、ランディ・ローズ(G.)、ドリュー・フォサイス(Ds.)、ケリー・ガルニ(B.)の4人でスタートしたクワイエット・ライオットは、決して順風ではなかった。デビュー・アルバム「静かなる暴動」は、当時のアメリカでは全く相手にされず、発売もされていなかった。日本でも、いかにも少女うけのするルックスが先行した人気になり、ランディ・ローズをうんむんする者は1人としていなかった。
翌1979年にセカンド・アルバム「暴動に明日はない」が、これも日本でのみ発売された。このアルバムのレコーディング終了後、ルディ・サーゾが加入したが、この時点でクワイエット・ライオットは活動を停止してしまう。理由は不人気である。ロスでは、あまたるいクラブ・バンドの域から脱する事はできず、頼りの日本での売れ行きもイマイチ、という点から、バンドとして存続する事ができず、解散という形で活動に終止符を打った。
このクワイエット・ライオットの名が再び取り沙汰されたのは、オジー・オズボーンのブラック・サバス脱退後のソロ・デビュー・アルバム「ブリザード・オブ・オズ~血塗られた英雄伝説」のクレジットの中に、ランディ・ローズの名が記された時だった。この不世出の天才ギタリストへ対する注目の中で、彼が元所属したバンドという程度の意味で、アメリカでも名を知られるところとなった。
更に、このオジー・バンドのベーシストとしてルディ・サーゾも加入し、ここでまた、クワイエット・ライオットには、名ギタリストと名ベース・プレイヤーが所属した伝説のバンドといった色合いが、徐々に濃くなり、段々と日本で発売された2作のアメリカへの輸出が増えていった。そういった状況の中で、1982年3月19日を迎えたわけだ。
この日、天才ギタリストとして将来の爆発的人気を約束されていたランディ・ローズが、飛行機事故のため、他界した。
この日を境に、ランディ・ローズの名は伝説となって語られ、同時にクワイエット・ライオットの名も伝説化し、2枚のアルバムはマニアの間で高額で取り引きされたり、アメリカでの輸出が飛躍的に増大するなど騒然とした人気を得ていった。
そして1983年、オリジナル・メンバーのケヴィン・ダブロウの呼びかけで、ルディ・サーゾ、カルロス・カヴァーゾ、フランキー・ヴァネリが参集し、新生クワイエット・ライオットが再デビューする事になる。実質的にはこの1983年が現クワイエット・ライオットのデビューする事になる。
こうして伝説が甦った形でのデビュー・アルバム「メタル・ヘルス~ランディ・ローズに捧ぐ~」は爆発的な売れ行きを記録し、全米で600万枚を売り尽くした。
そして1983年11月16日にビルボードTOP100にいて、メタル史上初という、おまけつきのナンバー・ワンを記録した。このナンバー・ワンがどれだけの価値があるかというと、マイケル・ジャクソンの「スリラー」、ポリスの「シンクロニシティ」、ビリー・ジョエルの「イノセント・マン」などの大物を眼下においてのナンバー・ワンだったという点を見ても明らかだろう。
このアルバムからは”カモン・フィール・ザ・ノイズ”、”メタル・ヘルス~バング・ユアヘッド”の2曲のメジャー・シングル・ヒットも生み、またたく間にヘッドライナーとしてライヴでの人気も爆発した。
勢いにのったクワイエット・ライオットは1984年に新生後第2弾アルバムとなる「コンディション・クリティカル」を発表、前作「メタル・ヘルス」の延長線上のサウンドを追求し、再びミリオン・セラーを記録、“クレイジー・ママ”、“パーティー・オール・ナイト”の2曲のシングル・ヒットを生んだ。そして1985年の1月に初来日公演を実現させた。
ところが、この頃からルディ・サーゾと残りのメンバーとの間にミゾが出来はじめ、この日本公演が、ルデイが在籍する最後のステージになった。既に脱退が決定していた為、ステージ上では全くスポットライトがあたらないという、変則的なステージになってしまった。
帰国後、脱退したルディ・サーゾに変わり元ジェフリアのチャック・ライトが参加する事になるわけだが、事実上1985年の一年間は、ほとんどクワイエット・ライオットとしての活動はなく、わずかに“HEAR’N AID”(ヘヴィ・メタル・アーティストが結集したエイドもの)に参加したにとどまった。
1986年にはいってすぐ、レコーディングを開始し、ここに新生後3作品、通算5作目のアルバム「QRⅢ」が完成したわけだ。再びクワイエット・ライオットの進撃は開始された。
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