ポップ・ミュージックの歴史に残るソウル・シンガーの一人、マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)。本名のつづりはGayだが、最後にeをつけたのは、尊敬するシンガー、サム・クックのCookeにあやかってだという。
1939年ワシントンD.C.出身。暴力的な父親の元で育ち、ハイスクール卒業後、米空軍に入隊。除隊後に地元でストリート・パフォーマンスを開始。レイ
ンボウズというドゥワップ・グループに参加し、ボ・ディドリーと知り合う。ボの協力でリリースできたレインボウズのシングルを聴いたシンガー、ハー
ヴィー・フクアの誘いを受け、彼のバック・コーラスとしてムーングロウズと改名したのが58年のこと。ムーングロウズはシカゴに移住し、当時ブルース/ソ
ウルのナンバー・ワン・レーベルだったチェス・レコードと契約し、レコーディングとライヴ活動を展開した。彼らがデトロイトで行ったライヴを見たモータウ
ン・レコード社長のベリー・ゴーディー・ジュニアが、マーヴィンをソロ・アーティストとしてモータウンに引き抜いたのが61年。そしてゴーディーの妹アン
ナと急速に恋に落ち、同年、結婚した。
67年にダイアナ・ロスとのデュエット曲「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」が、68年にシングル「悲しい噂(I Heard
It Through The
Grapevine)」がヒットを記録したが、マーヴィン・ゲイといえばやはり71年の名作アルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』にとどめをさすだろう。
ジャズ、クラシックの要素を導入し、マーヴィンの政治意識が色濃く反映されたたこの作品は、あくまでポップ・ソウルを求めるベリー・ゴーディーにとって受
け入れがたいものであったが、現実には「マーシー・マーシー・ミー」「インナー・シティ・ブルース」などのヒット・シングルを生み出し、高い評価を得た。
72年にはさらにジャズ・テイストを強めた『トラブル・マン』を発表。73年の『レッツ・ゲット・イット・オン』では、彼のセクシャルなヴォーカル・スタ
イルを全面に押し出し、物議をかもしたが、彼の最も売れたアルバムになった。73年にはダイアナ・ロスと再びデュエットしたアルバム『ダイアナ&マーヴィ
ン』を発表。しかしこのころから妻のアンナとの離婚問題が発生。しばらくして正式に離婚したが、ベリー・ゴーディーとの確執などもあり、コカインにおぼれ
るようになる。82年にはヒット・シングル「セクシャル・ヒーリング」を生んだアルバム『ミッドナイト・ラヴ』を発表し、83年には米ナショナル・バス
ケットボール・リーグ(NBA)のオールスター・ゲームで国家を歌うという大役を務めた。
しかし1984年の45歳の誕生日の前日、激しい口論の末、父親に射殺されるという悲劇的な最後を遂げた。その死以後も、アーバン・ソウルの申し子として変わらずリスペクトされ続けている。
…もっと見る