《footballに選ばれし曲たち》第4弾!
賛否両論 2002年 日韓ワールドカップ
《2002 FIFA World Cup Official Album~Songs of KOREA/JAPAN~ 》
の特集です。
まず、成績発表から大会の経緯に行ってみましょう。
間違えてたら、ごめんなさいね🙏😉
優勝 :ブラジル(5回目)
準優勝:ドイツ
3位 :トルコ
4位 :韓国
日本は、初のベスト16 👏🏻👏🏻
カメルーンと《キャンプ地》大分県中津江村との交流など、世界の方たちとコミュニケーションがとれ
日本人のホスピタリティーを、高く評価してもらいました😊
今や ベスト16 なんて当たり前…の空気がありますが、あの時は、みんなで喜びました!
ということで、大会に至る経緯を Wikipedia から抜粋していきまっしょい✊
《大会経緯》
2002 FIFAワールドカップは、アジア地域で初めて行われた大会、かつ、初の2カ国共同開催という大会
2002年5月31日から6月30日にかけて開催された17回目のFIFAワールドカップです。
これまで、FIFA W杯は、欧州と南北アメリカ間で交互に行われてきましたが
1986年に国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジア・アフリカ大陸による開催」案を打ち出しました。
その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会が、各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、
当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で
1988年にFIFAワールドカップの日本開催を構想、
1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始しました。
1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足
翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、
W杯招致は日本の国家的事業となりました。
日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、
トヨタカップなどの開催実績と
「平和で安全」
「豊かな経済」
「政治的安定」
「自由と民主主義」
「世界の先進国」
である点などを示し日本で開催する意義を謳いました。
その一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は
「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、
1994年の初めに招致委員会を組織しました。
日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、
同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、
現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、
「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして
日本の招致活動に激しく対抗しました。
そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、
招致活動は日韓の一騎討ちとなりました。
1995年11月に、FIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、
スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックし
『日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい』
と日本を高く評価しました。
開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で
決定される予定でしたが、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控えていた為
一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派と
ヨハンソンUEFA会長を次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が、
次期会長職を巡って対立し始め、開催国決定は《政治ゲーム》の様相を呈してきます……
そして、《日本単独開催》を主張する アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと
反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進する様になります。
こうした状況の中で、次第に日韓共催案が現実味を帯び始めます。
直前になって欧州理事らが、アフリカ理事の票を押え多数派となり
開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場で、
敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催
(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)
を自ら提案することを決断しました。
1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長は、FIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、
日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせます。
電話でのブラッター事務局長の口ぶりは、切羽詰まっており、打診というより要請だったそうです。
その日の午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書が届き、その文書には
「既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい」
と書かれていました。
もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は
「韓国の単独開催」になるのは必至だったそうです。
ブラッターへの返答刻限が迫る中、
宮澤喜一招致議連会長が
「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」
と発言し、その発言をきっかけに長沼日本サッカー協会会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断します……
1996年5月31日午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、
満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じ.投票を待たずして日韓共催が決定しました。
当時サッカージャーナリストのマーティン・ヘーゲレが言ってた
《趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る》
などの情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、
日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた 日本招致委員会の実質的な敗北です ⤵⤵⤵……
( もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があったそうです。)
結局、日韓共催は アヴェランジェ会長・南米派と
反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物でした。
アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退します。
また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任します。
(この件に関してマーティン・ヘーゲレは
「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」
「ヘーゲレ へ圧力をかけるよう鄭本人が、フランツ・ベッケンバウアー(ドイツサッカー界の皇帝)に依頼したものの、一蹴された」
と主張しています。)
その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、
国際通貨基金(IMF)の管理下に入ります。
IMF経由の日本を中心とした、金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に
最後まで日本単独開催には至りませんでしたが、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し
試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となります。
そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画しましたが、
韓国政府が断り、中止に(諸説あり)
結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現しました。
ご清聴ありがとうございました<(_ _)>
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