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まさかまさかの『遊戯』シリーズの音源配信をうけ、 《懐かシネマ MOVIE CHRONICLE》シリーズ第16弾は、 《伝説の俳優》松田優作の《遊戯シリーズ三部作》の特集です! プラスして、一連のバップ「ミュージックファイルシリーズ」のさらなる配信を祈願して、お届けいたします! (『蘇える金狼』もお願いね💕) 《選曲》 ①⑦⑧『最も危険な遊戯』(78年) ②③⑥『殺人遊戯』(78年) 『殺人遊戯』挿入歌 松田優作/『夏の流れ』1978年、アルバム『Uターン』より 作詞/東海林 良  作曲・編曲/大野雄二   窓にうすい 陽がかげり   夏の終わり 告げてる 古いジャズなど かけたまま   肩をすぼめ それを見送る 終わりかけた 罠なのに  それを今も 引きずる 俺の弱さを 詫びたいよ  堕ちたままで 前へすすめない あんたへの 罪の重さ 音たて 身体(からだ)刻んでく はじめから ひとり芝居   演じた俺の 若さよ 蒼い肌を 落ちてゆく    熱い涙 ぬぐえよ 軽い酒でも 飲んだなら  朝まで死んだ ように眠れよ 時を騙し 生きることを   馬鹿にするが いいだろう 俺を葬る 日が来たら   偽り捨てて 生きておくれよ あんたへの 罪の重さ    音たて 身体(からだ)刻んでく はじめから ひとり芝居  道化た(どうけた)仕草は できない あんたへの 罪の重さ     音たて 身体(からだ)刻んでく はじめから ひとり芝居  傷つく台詞(セリフ)は 言えない ④⑤『処刑遊戯』(79年) 《作品経緯》 1977年4月、日活の企画製作部長、撮影所長だった黒澤満は、退社しフリーになります。 "ロマンポルノ"という呼称の名付け親として知られる黒澤満は、 日活役員会で旧知の社員仲間らを更迭する動議が出たため、退社をしたのです。 ほどなくして、東映の岡田茂社長にスカウトされ、新会社《東映セントラルフィルム》のプロデューサーに迎えられます。 《東映セントラルフィルム》は、大作映画に移行する製作体制では、追いつかない《東映の番組》を埋める 低予算の《B級映画》を製作する為に立ち上げた会社です。 「プログラムピクチャーこそが映画の原点」 という信念を持つ黒澤満は、興味を持ち オファーを快諾します。 岡田茂は、製作費3000万円、撮影日数2週間、オールロケーション この条件で、《娯楽映画》を1本撮るように依頼します。 しかし《ロマンポルノ》なら《ノー・スター》で済むけど、この製作体制で《アクション映画》は撮れるのか?…… 黒澤満は、日活時代に苦楽をともにしたプロデューサーの伊地智啓を引き込みます。 (苦楽を共にする同士は必要だよね。なんせ、同時期の東映映画『柳生一族の陰謀』は、9億7000万円の製作費だから。3000万円だとね…) 黒澤満は《アクション映画》を作る事によって、本来の《プログラムピクチャー》の復興がなされると考え 第1回作品の監督に、72年に『哀愁のサーキット』で1回、映画を離れ テレビドラマ『大都会』などを撮っていた映画監督の村川透に声をかけます、 そして、この低予算のアクション映画の主役に、黒澤満はある人物を思い浮かべます。 黒澤満は、当時を思い出し 「3000万円の予算だから、……お金はないよね。 となると、ある程度、役者の動きがポイントになるだろ。 当時、優作は『六月劇場』(岸田森、草野大悟が中心の劇団)に入っていたんだけど、 彼の走る姿、全身の動きというのは綺麗だろ。格好よくやれるだろうと。」 と、語ってます。 (黒澤満『映画芸術』インタビューにて) これらを前提に、脚本依頼したのが『拳銃は俺のパスポート』(67年)や、テレビドラマ『大都会』の永原秀一。 永原秀一が書いた作品のタイトルは『最も危険な遊戯』。 (タイトルの元ネタは、1963年の小説 ギャビン・ライアルの『もっとも危険なゲーム ("The Most Dangerous Game")』ですかね。) 巨大資本と国家権力にたった一人で戦いを挑む殺し屋を描くハードボイルド・アクションです。 財界のトップが誘拐される事件が続発。 東日電気社長の南条もその犠牲となった。 東日電気会長の小日向兵衛(内田朝雄)は、娘婿でもある南条社長の救出を五千万で鳴海昌平(松田優作)に依頼する。 この誘拐劇は、敵対する五洋コンツェルンが、政界の黒幕・足立精四郎(見明凡太郎)を抱き込んで東日グループを壊滅しようとする陰謀であった。 足立の右腕 居郷(名和宏)の愛人・田坂杏子(田坂圭子)から、 南条の居所を聞きだした鳴海は、単身救出に挑むが…。 伊地智啓はこう言います。 「これは予算がない、これをどうするんだ?……といった時の、やっぱり村川透の意気込みというのかな、そういうものを我々にも見える形で表現してくれたことは確かにあった。 一週間では無理だけど、二週間で絶対やるから、俺に任せてくれ!……みたいなね。そういう大変頼もしい言葉はありましたよ。」 村川透は、作品の《画作り》に『大都会』シリーズで組んでいたカメラマンの仙元誠三と、 照明技師の渡辺三男を呼び寄せます。 仙元誠三は、独自の感性に基づいたカメラワークや色使いを駆使し、 画面が超低速で横移動やズームをする《デッドスロー》と呼ばれる手法や、 ブルーの色調が強い画面を編み出した人物。 『最も危険な遊戯』の冒頭の青みがかった早朝の新宿副都心の街並みは《仙元ブルー》の始まりでした。 そんな場面を彩る音楽は、『犬神家の一族』の大野雄二。 トランペットをメインに、フルートとシンセサイザーをミックスした、ジャージーな名曲です。 78年当時、『ルパン三世』『大追跡』『野性の証明』と多忙を極めていましたが、旧知の村川透との仕事を嬉々として引き受けます。 「村川さんは、音楽好きだから、他の監督に比べてああしろこうしろじゃないんですよ。言うことだけはキチッと言って、後は自由にしてくれってなもんでね。」 優作演じる《鳴海昌平》の住処は、潰れたボウリング場。 そこでのトレーニングシーンの描写は、台本になく ゚ボウリングピンで腹筋を叩く・ ゚ボウリングの球に指を入れて腕立て伏せ゚ など、その場でアイデアを出し合って、即興で作り上げました。 村川透は 「細かいことはシナリオには書けない。当たり前です。 言葉というのはそれまでなんですよ。 それをどう映像で表すかっていうのが現場の仕事。 このトレーニングシーンにしたって、鳴海は殺し屋だから、裸にした方がいいだろうってね。 そんで後はもう、撮ってどうするかってところは優作に任せるわけだからね。」 作品前半の東日電気社長奪還シークエンスは、高井戸にある廃墟ビルで行われました。 三階建てビルで中は暗く、照明のセッティングに苦労した上、 銃撃戦は、一般的にカット割りが細かく、スタッフからは 「こりゃ3日ぐらいかかったってできないぞ…」とため息が漏れます。 村川透は、 「俺は一晩でやるからな。このシーン、ワンカットで行くぞ」 「えっ!?」 村川の宣言に、仙元をはじめスタッフは仰天しました。 ワンカットって言うことは、カメラマンの仙元誠三は10キロ近い35ミリカメラを担いで 階段を駆け上がらなくてはなりません。 被写体は、俊敏な松田優作です。 「わかりました。俺は体力には自信があるし、ワンカットで行きますよ!」 村川透は、スタッフ、優作を含む役者陣を集めて入念に撮影プランを説明します。 幸か不幸か、低予算なので同時録音が出来ない為、マイクが映り込む心配はありません。 優作から、 「画面がしょぼくならない様に、大人数を倒したい」 というリクエストがあり 撃って来る敵は画面に映さないようにして、15人程のアクション俳優を、 死んだ後、裏手の道を通り、優作の先回りして複数回撃たれる役にしました。 映画魂溢れるシーンです。ぜひ御覧になって下さい。 終盤のクライマックスは、車で拉致された杏子を、走って追いかける鳴海 「車は全速ではないにしても、そこそこのスピードは出していたよ。悪徳刑事役の荒木一郎は 一瞬止まって《こっち来い》って、気配ですよ。お互いの。そういうプロ同士の意味を含めて 《(車が)走ったら 走って来い》《俺は俺で逃げるけど、お前わかってるね、勝負だよ》って意味なんだ。 わざと、離れないように走るわけよ。さすがの優作も最後はヘトヘトになってたね。」 (村川透 談) 結果的に『最も危険な遊戯』は13日間、2800万円で仕上がり、残りの200万円は東映に返却しました。 村川透は、 「俺はスケジュールは遅れない、お金は儲けさせてやるけど、理不尽なことは嫌いだからね。 なんせテレビ局や大手の映画会社だけが儲かるとか、 なんか悪いことをして誤魔化して、プロデューサーだけが儲かるとかね。 そういうのが一番嫌いなんだ!」 映画は、小林旭版『多羅尾伴内』と同時上映で1978年4月8日に公開。 興行的には成功とは言えませんでしたが、『最も危険な遊戯』は、評論家、観客には好評を得ました。 ……残り二作品はちょっと駆け足で行くね。😅 二作目の『殺人遊戯』は、スタッフ、キャストもほぼ同じ。(予算もね。) 村川透と優作の息も合い、映画もアドリブが飛び交う自由な感じの作品です。 鳴海昌平の舎弟の文太役の阿藤快(阿藤 海)がいい味を出しています。 五年前、大組織・頭山会会長を一発の銃弾で仕留めた鳴海昌平(松田優作)が、東京へ帰ってきた。 その事件の目撃者でもある美沙子(中島ゆたか)は、暴力団寿会会長・勝田(佐藤慶)の愛人となっていた。 かつての弟分が率いる花井組との激しい抗争を続けていた勝田は、五年前の頭山会長殺しで鳴海の凄腕ぶりを知っていた。 勝田に花井組長殺しを半ば強引に依頼された鳴海だったが、一方、花井(草薙幸二郎)にも勝田殺しの依頼を持ちかけられる…。 1978年12月2日公開で、同時上映は、舘ひろし主演『皮ジャン反抗族』。 三作目の『処刑遊戯』は、ドラマ『探偵物語』の脚本でデビューした丸山昇一の映画脚本デビュー作です。 丸山は、冒頭で鳴海昌平が死に、その双子の兄弟が復讐を遂げる初稿を提出しますが、優作からボツをくらいます。 優作から、 「もうやめよう、こういうのは。『探偵物語』でアチャラカはやってんだからさ。 アラン・ドロンの『サムライ』みたいな、なんかああいう感じ? うん、それで行こう、ヨロシク」 と言われてしまいます。 丸山昇一は、黒澤満、伊地智啓に励まされ、5日で書き上げます。 バーでピアノの弾き語りをする女(リリィ)と知り合った鳴海(松田優作)は、 女との行きずりの情事の直後、正体不明の組織に拉致され凄まじいリンチを受ける。 だがそれは、鳴海の殺し屋としての力量を試すものだった。 女の安否をちらつかせながら、組織は鳴海に一方的な殺人依頼を命じてくる。 標的は組織とかつて契約を結んでいた殺し屋の岡島(青木義朗)。 追跡・尾行の果て、岡島を狙う鳴海のライフルスコープに映ったものは意外にも……。 冒頭から緊張感溢れる長回しで、フランスっぽいフィルム・ノワールの傑作です。 丸山昇一は、自分の脚本の 「鳴海が歩いていて、敵側の誰かが歩いて来て追っていく」 というト書が 監督の手によって、坂道になり、ただ尾けるのではなく、スっと路地裏から出てくるなど、映画の膨らみに感銘を受けたそうです。 丸山昇一は、 「それ以後、尾行するシーンは、ただ《歩いてる、尾行する。》って書くだけじゃなく、画のことを意識します。 坂道なのか、階段なのか、中からなのか外からなのか」 と、語ってます。 映画は、1979年11月17日公開。 同時上映はジャッキー・チェン主演『スネーキーモンキー蛇拳』 その後、村川透監督と松田優作は、『野獣死すべし』(80年)を最後に、袂を分かつ事になります。 紆余曲折を経て9年後 村川透は、黒澤満から優作主演で、日本テレビのスペシャルドラマの監督を依頼されます。 『華麗なる追跡 THE CHASER』(89年)です。 『ブラック・レイン』(89年)でハリウッド映画に進出した松田優作の日本凱旋作品です。 共演は、ソウルオリンピック女子陸上金メダリスト、フローレンス・ジョイナー。 話題のドラマで、村川透と松田優作は再会を果たしました。 しかし、松田優作の肉体は、膀胱癌に蝕まれていました。 村川透は 「俺は彼の肉体的な変化ってものがわからなかったの。一切わからなかった」 優作は『華麗なる追跡』の出演が決まった89年4月、主治医から化学療法や放射線治療を断り このドラマの撮影を優先しました。 優作が病気を隠して撮影した事で、製作現場はスムーズには進みませんでした。 後に、この作品のVTRを観た村川透は 「走ってる走ってる、一生懸命走ってる。厳しかったんだろうな……」 と、目に涙を浮かべました。 撮影後、 「じゃあな」と言って別れた優作と、村川は次の作品について思っていたのです。 しかし…… 1989年11月6日、松田優作死す…… 《遊戯シリーズ》の4作目を、アメリカで撮る計画もあったそうです。 松田優作、40歳になったばかりなのに…… 村川透は松田優作の死後、マスコミからの取材を断り続けたのですが、 《NTV火曜9時》枠のプロデューサーだった山口剛が編集した『探偵物語 メモリアルブック』に例外的にコメントを寄せました。 優作が死んでから5年後の事です。 《優作という核を中心にして、時代が回ったんです。本当にあいつは、すばらしい俳優でした。》 と。 挑戦したり、ぶつかり合いながら、村川透と松田優作は 出会うべくして出会う、唯一無二の同士だったのです。
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