考えるまでもなくこの世界に70億人とか80億人とかいる中で「私」という存在はこの私たった一人きり。あなたは当然私ではないし彼も彼女も彼らも当然私ではない。
夜空に散りばめられた星星のごとく遠く離れた光を互いに認め合うようなその距離を思う時その圧倒的な「私」という存在の孤独な有りように茫然とする。
「私」とはつまり決定的に孤独なもの。I‐solationとはよく云ったものだ。
「私」と「私」との孤独な距離を埋めるために言葉はあるのかもしれない。心だけで通じ合えるならそれに越したことはない。微笑みだけで距離が縮まることもある。それでも一言二言ぐらいは言葉が必要だ。このあまりにも複雑化した社会構造の中に人として投げ込まれてしまった僕らである限り。
「私」と「私」との孤独な距離を埋めるための究極の言葉とは「うん。よく分かるよ。きみのこと」に違いない。他者に対する理解や共感こそはおそらく究極の愛と云ってもいい。趣味や価値観などが自分とは違ってもいやむしろ違うからこそ人間社会は面白い。他者を否定することはそれこそ自分の傲慢さを恥じるべきだし何よりも「私」という存在の幅を狭めることにもなるだろう。愛の対極にあるもの。それは「他者の否定」であることは間違いない。
人が「心の通う仲間」を作りたがるのも「みんなといっしょ」であることで安心するという気持ちもよく分かる。何故なら孤独とは不安そのものだから。不安の中では人はとても生きられない。人はそれほど強くない。
自身の孤独から逃れるための「心の通う仲間」というある種の狭量さ(それは他者の否定につながる)と安心を求めるための「みんなといっしょ」というある種の逃避行動(それは自己を埋没させる)。それを否定するつもりはないがそれが時に社会という群れ全体を危険にさらすことにもなりかねない。そしてまさに今「コロナ以降」の今がその危険な状態にあることも間違いない。
すべての思考を他人に委ねている状態の「みんなといっしょ」という安住の地から人々を脱け出させるのは容易ではない。そこでは言葉は何の役にも立たない。彼らが求めているのは「安心」であって考えることによって否応なく呼び覚まされる「不安」ではないから。
したがって「みんなといっしょ」から脱け出して一人一人が考えるように求める僕らのような存在は彼らにとって不安を呼び覚まされるだけの完全なる「他者」として否定されてしまう。彼らの考える「仲間」からは見事にはじかれてしまう。本来は繋がってしかるべき「私」と「私」がその場で引き裂かれてしまうのだ。その距離を縮めるのはもはや言葉でさえないのかもしれない。しかしそれでもなお彼らへの警告を彼らに届けるためには言葉という手段を使って伝え続けるしかないのだ。
今僕らが直面しているのは「みんなといっしょ」のみんながまるごと地の底に蹴落とされようとしている危険な状態。そして未だ多くの人がその現実にすら気づいていない。更に云えばこの現実に存在する危険の本当の意味での危険とは危険それ自体よりもむしろ多くの人が「みんなといっしょ」という架空の安全地帯に逃避したまま現実に存在する危険を一向に見ようとしないということにある。
現実を知ることは同時に不安を抱えるということでもある。しかしそれぞれがその不安を乗り越えて行動にうつすことによってしか未来の「安心」を勝ち取ることは出来ないのだ。行動そのものがまさに僕らに残された唯一の「希望」なのだから。
英語の「I」は偶然にも日本語の「愛」につながる。私とは愛そのもの。孤独な私と私。それぞれの自立した私と私を繋ぐものは結局のところ愛しかないのかもしれない。愛をそれぞれの「私」の中に育てよう。不安でさえも愛があれば乗り越えられる。
今ほどその「大きな愛」が人々に要求されている時代はない。
─遠く離れた星星の光を集めて。それが未来への希望の光となるように。
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