《映画『独裁者』ラストシーンのスピーチより》
申し訳ないが……。私は皇帝になどなりたくない。
私には関わりのないことだ。
支配も征服もしたくない。
できることなら、皆を助けたい。
ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。
私たちは皆、助け合いたいのだ。
人間とはそういうものなんだ。
お互いの幸福と寄り添いたいのだ……。
お互いの不幸ではなく。
憎み合ったり、見下し合ったりしたくないのだ。
世界で全人類が暮らせ、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。人生は自由で美しい。
しかし、私たちは生き方を見失ってしまった。
欲が人の魂を毒し……。憎しみと共に世界を閉鎖し……。
不幸、惨劇へと私たちを行進させた。
私たちはスピードを開発し、自分たち自身を孤立させた。
ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げてしまった。
知識は私たちを皮肉にし、
知恵は私たちを冷たく、無情にした。
私たちは考え過ぎ……。感じなさ過ぎる。
機械よりも、人類愛が必要なのだ。
賢さよりも、優しさ、思いやりが必要なのだ。
そういう感性なしでは、世の中は暴力で満ち、
全てが失われてしまう。
飛行機やラジオが、私たちの距離を縮めてくれた。
そんな発明の本質は、人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。
今も、私の声は世界中の何百万の人々のもとに届いている。
何百万もの絶望した男性たち、小さな子供たち。
人々を苦しめる組織の犠牲者たち。
罪のない人たちを投獄させる者たち。
私の声が聞こえている人たちに言う……。
絶望してはいけない。
私たちに覆いかぶさる不幸は、単に過ぎ去る貪欲であり、人間の進歩を恐れる者たちの憎悪なのだ。
憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶えるであろう。
人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。
決して人間が永遠に生きないように、決して自由が滅びることもない。
兵士たちよ。
獣たちに身を託してはいけない。
君たちを見下し、
奴隷にし、
人生を操る者たちは、
君たちが何をし、
考え、
感じるかを指図する。
君たちを鍛え、食事を制限する者たちは、
君たちを家畜として、ただのコマとして扱うのだ。
身を託してはいけない。
そんな自然に反する者たちなどに。
機械人間たち……。
機械のマインドを持ち、機械の心を持つ者たちなどに。
君たちは機械じゃない。
君たちは家畜じゃない。
君たちは人間だ。
心に人類愛を持った人間だ。
憎んではいけない。
愛されない者が憎むのだ。
愛されず、自然に反するものだけだ。
兵士よ。
奴隷を作るために闘うな。
自由のために闘え。
『ルカによる福音書』の17章に、
「神の国は人間の中にある」とある。
ひとりの人間ではなく、
一部の人間でもなく、
全ての人間なのだ。
君たちの中になんだ。
君たち、人々は力を持っているんだ。
機械を作り上げる力、幸福を作る力を持っているんだ。
君たち、人々が持つ力が、人生を自由に、美しくし、人生を素晴らしい冒険にするのだ。
民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。
皆でひとつになろう。
新しい世界のために闘おう。
常識ある世界のために。
皆に雇用の機会を与えてくれ、
君たちに未来を与えてくれ、
老後に安定を与えてくれる世界のために。
そんな約束をして、獣たちも権力を伸ばしてきた。
しかし、奴らは嘘つきだ。
奴らは約束を果たさない。
これからも果たしはしない。
独裁者たちは自分たちを自由にし、
人々を奴隷にする。
今こそ、闘おう。
約束を実現させるために。
闘おう。
世界を自由にするために。
国境のバリアをなくすため。
欲望を失くし、嫌悪と苦難を失くすために。
理性のある世界のために闘おう。
科学と進歩が全人類の幸福へ、導いてくれる世界のために。
兵士たちよ。
民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。
ハンナ、聴こえるかい?
君がどこにいようと、ほら、見上げてごらん ハンナ
雲が消えて、
太陽の光が差し込んできただろう?
僕たちは暗闇から抜け出て
光の中へ行くんだ。
新しい世界に
心優しい世界に
憎しみも
強欲も
残忍もない、そんな世界に。
だから、見上げてごらん、ハンナ。
人間の魂には、翼が与えられていたんだ。
そして、ついに人間は飛び始めたんだよ。
虹に向かって
希望に向かって
未来に向かって
君や僕、みんながそこで暮らすんだ。
だから、見上げてごらん、ハンナ
見上げてごらんよ。
《ヒトラーを模した独裁者ヒンケルそっくりのユダヤ人チャーリー (チャップリンの二役)
間違えられたチャーリーは、ヒンケルの代わりに壇上に上げられ
民衆の前でスピーチする有名なシーンです。
今だからこそ、胸に響く言葉です。》
《選曲》
①②『モダンタイムス』(36年)
③⑥『ライムライト』(52年)
④『ニューヨークの王様』(57年)
⑤『伯爵夫人』(67年)
⑦『街の灯』(31年)
⑧『独裁者』(40年)……ファイナル・スピーチ
《チャップリン略歴》
1889年4月16日、ロンドンに生まれる。
両親はともにミュージック・ホールの俳優であったが、チャップリンが1歳のときに離婚。
チャップリンが7歳のころに母は精神に異常をきたし施設に収容される。
チャップリンは4歳違いの異父兄と孤児院や貧民院を転々としながら、
家計を支えるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞の売り子、パントマイム劇などの職に就く。
チャップリンは19歳のときに名門劇団に入り、一座の若手看板俳優となる。
アメリカ巡業の際に映画プロデューサーの目にとまり、
チャップリンは25歳で映画デビュー。
たちまち人気者となる。
第二次世界大戦後、東側諸国との冷戦が始まったアメリカで
チャップリンの作風が共産主義に理解を示していると非難される(赤狩り)。
1952年、63歳のときにアメリカから国外追放命令を受け、チャップリンは米国と決別。
映画出演もめっきり少なくなるが、スイスに移り住み幸せな晩年を送る。
1972年、米国アカデミー賞授賞式に出席するため、20年ぶりに米国の地を踏む。
舞台に登壇したチャップリンはスタンディングオベーションで迎えられた。
1977年12月25日、チャールズ・チャップリンはスイスの自宅で88年の生涯を閉じた。
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