《選曲》
①『真昼の用心棒』(66年)
②『地獄の門』(80年)
③『サンゲリア』(79年)カバー曲
④『サンゲリア2』(88年)
⑤『マッキラー』(72年)
⑥『幻想殺人』(71年)
⑦ルチオ・フルチ作品の音楽 ファビオ・フリッツィ作へのオマージュ
⑧ルチオ・フルチ監督、音楽ファビオ・フリッツィ作の『ビヨンド』(1981年)オマージュ
1927年6月17日生まれのルチオ・フルチは、
ジャーナリストをしながら映画実験センターに通い、
マルセル・レルビエ監督の「ポンペイ最後の日」の助監督を務めました。
その後短編やニュース映画を撮りながら、喜劇のシナリオを書き、
59年の『I Ladri (仮題『泥棒ども』)』で監督デビュー。
その後、アドリアーノ・チェレンターノやミーナが出演する音楽映画や、
当時イタリアで絶大な人気を誇った喜劇コンビ、フランコ&チッチョ主演のコメディ映画などを手がけました。
60年代に 21本 撮っていますが、その大半は喜劇です。
初めて国際マーケットで脚光を浴びた作品、
フランコ・ネロ主演のマカロニ・ウエスタン『真昼の用心棒』(66年)の残虐描写で大注目!
日本 初登場作です。
その後、一貫して職人監督としての仕事に徹してきたフルチが、
初めて自ら原作、脚本、演出までを手がけた作品が
ヒッチコック・スタイルのスリラー
“Una sull'altra”('69年 邦題『女の秘めごと』)です。
次に自ら最高傑作と自負する歴史ドラマ
“Beatrice Cenci”('69年『ベアトリス・チェンチ / 拷問の陰謀 』)を発表します。
これは16世紀末のイタリアに実在した女性ベアトリーチェ・チェンチの悲劇を描いた実録作品でした。
(エイドリアン・ラルッサ と トーマス・ミリアン主演 )
しかし、あからさまな教会批判が、カトリックのお膝元であるイタリアでは問題視され( フルチは、カトリック教徒 )フルチは《問題児》のレッテルを貼られてしまうこととなります。
さらに11年間連れ添った最愛の妻グレッタが癌を苦にガス自殺を遂げてしまい、
すっかり気落ちしてしまったフルチは、フリオ・ブックスと共同監督した西部劇“Los desesperados”を最後に仕事から遠ざかってしまいます。
そんなフルチが1年余りのブランクを経て発表した作品が、めくるめく幻想と官能のサスペンス・ホラー『幻想殺人』('71)。
夢で見た殺人は、本当だったのか?……という《ダリオ・アルジェント》タイプのスリラー。
その後、古い迷信や因習が色濃く残る南イタリアの村で次々と起きる連続殺人の『マッキラー』(72年)などを撮り
淡々と娯楽作を手がけました。
ジュリアーノ・ジェンマを主演に迎えたマカロニ・ウェスタン『新・復讐の用心棒』('78)が再び興行的に失敗しましたが、
その次に手がけた作品は、
まさに奇蹟の逆転ホームランとも言うべき世界的大ヒットとなった《イタリアン・ホラー》を代表するゾンビ映画の金字塔『サンゲリア』('79)を撮りあげます!
ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』の世界的成功に着目したイタリアの映画製作者ファブリツィオ・デ・アンジェリスは、
すぐさま類似の恐怖映画を作ろうと思い立ち、その監督としてルチオ・フルチに白羽の矢が立てられました。
その伊題は『ゾンビ』の伊題“Zombi”のあたかも続編であるかのように“Zombi 2”とつけられました。
しかし、その作品に抗議をした人物がいます。
『サンゲリア』の内容が『ゾンビ』の模倣であると難癖をつけたのは、
監督のジョージ・A・ロメロではなく、その協力者のダリオ・アルジェントでした。
ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が大のお気に入りで『ゾンビ』の製作・音楽に関与したアルジェントは、
自分の監督作ではないにも関わらず、『ゾンビ』は自分のものであるという意識を非常に強く持っていました。
これは、ロメロではなく、あくまでアルジェントが語った事ですが、
彼とロメロは当時本物の“Zombi 2”(つまり『ゾンビ』の正統な続編『死霊のえじき』の仮題)の製作準備を進めていましたが、
フルチの“Zombi 2”(つまり『サンゲリア』)によって中断せざるを得なくなり、
さらに、フルチ作品として“Zombi 3”
(つまり『サンゲリア2』。だが実際にはフルチは病気で監督を途中降板し、
ヴィンセント・ドーン こと ブルーノ・マッティが完成させました。)
までが公開されてしまい
頓挫させられたアルジェントは、自分の“Zombi”を真似し続けたフルチを許す訳にはいかなかったのです。
そんなアルジェントの元に、ある日一通の手紙が届けられます。
それはフルチとジョルジョ・マリウッツォ
(監督兼脚本家。『ビヨンド』、『墓地裏の家』等の脚本に参加。)
連名によるものであり、
そこにはJ・ターナーのゾンビ映画の古典“I walked with a zombie”
(『私はゾンビと歩いた!』または、『生と死の間』または、『ブードゥリアン』(1943)と、複数邦題があります。)
以前に既に作られていたゾンビ映画12作品の題名を連ねたリストが記されていて、この手紙の結びの言葉は、
「もし私が『サンゲリア』で君らを真似たと言うなら、君らも模倣者だ。」
アルジェントの批判に対するフルチの反論は、明快で
「『サンゲリア』は『ゾンビ』とは異なり、
ブードゥー教の伝統に根ざしたものである。
ゾンビとはそもそもハイチやキューバが起源であり、
アルジェントの考え出したものではない。」
ま、ゾンビがアルジェントのものなどではないとする言い分は全く正しいが、
ゾンビにブードゥーとは無関係な《人喰い》を付与した『サンゲリア』の設定は
完全に『ゾンビ』からの(て言うか、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』)引用であり、
この点について(アルジェントではなくロメロの)模倣と叩かれても仕方あるまい。
しかし、そんなことはさらさら認めず居直ったこの態度は、フルチらしいというか😅
しかしその後も、アルジェントは機会のあるごとにフルチを非難し続けました。
フルチが一連のゾンビ物の後に『ザ・リッパー』(82年)を発表した時は
アルジェントがインタビューでこう語ってます。
「フルチはいつも私の後をついて来た。
私が動物に関するスリラーを作った時、彼は私の真似をした。
その次はゾンビ物、そして今度はスリラーに戻った。
彼と私は異なる作家だ。彼はイタリア式の恐怖映画を作っているのだ。」
(Dario Argento, intervista di Luciano Riotta; 伊 Il Messaggio 誌(1982))
(「スリラーに戻った。」と言う部分は、アルジェントが7年ぶりのスリラー『シャドー』(82年)を発表した後、フルチが『ザ・リッパー』を作った事を指している。)
(また、「イタリア式の」という表現は、過去の作品(他外国の)をパクってきたイタリア映画界を見下す軽蔑心と、
「自分の作品は違う」という自負心である。)
アルジェントは、“動物3部作”と呼ばれる題名に生物の名前を入れた初期のスリラー3作
『L' UCCELLO DALLE PLUME DI CRISTALLO (クリスタルフェザーの鳥 邦題『歓びの毒牙』)』(69年)
『IL GATTO A NOVE A CODE(9つの尾のある猫 邦題『わたしは目撃者』)』(70年)
『QUATTRO MOSCHE DI VELLUTO GRIGIO(灰色のベルベットの4つのハエ 邦題『4匹の蝿』)』(71年)
これら作品がヒットした為、《ジャーロ (イタリアのミステリ小説、犯罪小説、探偵小説)》映画は
タイトルに生き物の名前が付く映画が多くなります。
フルチが1970年代初めに監督した2本のスリラー
“Una lucertola con la pelle di donna”(1971)(女の肌を持つトカゲ、『幻想殺人』)
“Non si sevizia un paperino”(1972)(子ガモをいじめないで、『マッキラー』)
の各題名も、明らかに上述の風潮に倣ったものであります。
アルジェントにとってフルチは、’70年代から《アルジェント・タッチ》を模倣し続けてきた《嫌な》存在だったのです。
(しかしイタリア恐怖映画は、リカルド・フレーダやマリオ・バーヴァなどの先人の影響下から逃れられないのではないか……模倣とは何か?
他人の作品を模倣するいわゆる《イタリア式》からアルジェントは独立できたのか?)
ルチオ・フルチは、ダリオ・アルジェントの事をこう語ってます。
「私は、いつもアルジェントのことを誉めているのに、彼は私の悪口ばかり言う。
《中略》
私はトト(イタリア映画の喜劇王)の映画の脚本を20本も書き、
子供向け映画や西部劇も作った。ファンタスティックな映画も愛しているが、
フランコ・フランキとチッチョ・イングラッシャ
(イタリアの著名な喜劇コンビ。60年代のフルチ作品に2人組みで何本か出演)
の映画に戻ることもできる。
しかしアルジェントはこうはならない。なぜなら、彼は己の限られた世界にとどまっている。
ダリオ・アルジェントは、確かにイタリアの最も優れたスリラーを作り一時代を確立したが、
彼はそこで止まってしまった。
彼の最近の3作
(時期から見て、『フェノミナ』、『オペラ座 血の喝采』、『マスターズオブホラー 悪夢の狂宴』の3つ)
は正に悲劇だ。彼が確立したスタイルって事でいえば、その全ての才能を失ってしもうたみたいだ。
作家としては、彼は死んでいる。」
(L'OCCHIO DEL TESTIMONE(1992) P.45-46. 第12章「アルジェントについて」)
《猿真似イタリア式監督》VS《天才気取りの才能を枯らした監督》
両者の関係は永遠に改善されないまま終わるかに思えた……
そんな中、フルチの死の2年前の1994年、
この年、ローマの第14回ファンタフェスティバルに参加したアルジェントは、会場でフルチの姿を偶然目にします。
映画好きのルチオ・フルチは、晩年までこの映画祭に参加していたのです。
当時、既にフルチは病気により体調を崩しており、車椅子に乗っての参加だった。
その痛々しい様子を見たアルジェントは
「このように悲惨な状況は、フルチほどの監督に相応しくない」と感じます。
アルジェントは初めて対面したフルチに自分から声を掛け、
将来共同で映画を作る事を約束しあいます。
(結果的にアルジェントが協力する事になったのが『肉の蝋人形』(97年)
ルチオ・フルチの死により特殊メイクアーティストのセルジオ・スティバレッティが監督を代行しました。)
以下、再びアルジェントへのインタビューより。
「私とフルチは、十年以上もの間 語り合った事がなかった。
フルチは、たとえ私を模倣しなくとも、彼の作品は変わらず素晴らしく、興味深いものとなっていただろう。
フルチはイタリア映画の歴史的な作家だ。過小評価されていたが、今では、人々が彼の作品が、イタリア映画の財産であるという事に気づいたんだ。
私はルチオと和解できて嬉しい。
そしてとりわけ、もうじき撮影に入る彼の新作を自分が製作できることを誇りに思っている。」
(Intervista a Dario Argento, L'OCCHIO CHE UCCIDE(1996)P.18 このインタビューはフルチの死の前年に行われたもの)
そして1996年3月13日、フルチ死す。
そのすぐ後のアルジェントへのインタビューは、
「ああ……ルチオ・フルチ。
本当に残念だ。
フルチとは何年もの間付き合いがなかった、ごく最近までは。
映画の題名で彼に真似されたので、私はとても不快に思っていた。
動物名をつけた映画全てを・・・彼と他の連中の。
私の作品の題名を模倣した作品は、50本を下らない。
『血塗られた羽を持つ蝶』、『女の肌を持つトカゲ』
アヒル、猫、ネズミ……全く何でもありだ。
私は何も言わなかった。
誰でも自分の仕事をしているのであり、みんな他の作品から何かを引用しているからだ。
私だって、他の作家からインスピレーションを得たことはある。
それでも私は、これほどまでに機械的な模倣に対しては怒りを禁じ得ない。
こういった監督連中とは一切関わりを持ちたくなかった。フルチとも。
しかし後で、彼に対しては肯定的な見方をするようになった。
私は彼の映画を見た。これは私の考えだが、『マッキラー』は非常に素晴らしい。・・・(後略)」
(NUOVO CINEMA INFERNO, L'OPERA DI DARIO ARGENTO(1997)P.117)
最後にダリオ・アルジェントから
《ルチオ・フルチはイタリア映画の財産》
と思われるようになったのは、確執を超えた美談と言えますね。
ルチオ・フルチは、観てもらえばわかると思いますが、
過剰なまでの、突出したイマジネーションに支えられた作品群は
模倣の一言では語れない凄まじさを持っていて、
あのダリオ・アルジェントを持っても《一目置く》存在だったのでは……
また、逆に影響される事もあったのかも……。
かつてルチオ・フルチは、自作について こう語ってます。
インタビュアー
「あなたやあなたの映画を知らない観客を想定して、あなた自身を紹介するとするなら、どんな作品を選びますか?」
ルチオ・フルチ
「『マッキラー』(72年)と『ベアトリス・チェンチ 拷問の陰謀』(69年)
それから『ルチオ・フルチのサイキック』(77年)は良く出来た恐怖物だ。
いずれにしても、私は『Beatrice Cenci ベアトリス・チェンチ 拷問の陰謀』 に対しては
特別な思い入れがある。私の映画の中でも一番知られていない一本だが、私の考えでは、一番美しい映画だ。」
インタビュアー
「この映画は大成功したんですか?」
ルチオ・フルチ
「全然! 思い出すのは、スペインで撮影監督と一緒に観客に混じって上映を見た時の話だ。
しまいには、私達は逃げ出してしまったよ。
何故なら、みんなが「監督をぶち殺せ!」と叫んだからだ。
誰かが私に気づくんじゃないかと気が気でなかったよ(笑)」
インタビュアー
「あなたも映画狂ですか?」
ルチオ・フルチ
「映画喰らいさ! 映画喰らいの申し子だよ。一日200本でも観てみせるぞ!
我ら映画狂は、皆が《大いなる愚か者》なのだ。
何故なら、映画を深く愛するあまり、気づいた時にはそれが人生における唯一の事になってしまっているからだ。」
ブラビッシモ❗ルチオ・フルチ❗
キネマの神様❗<(_ _)>
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