《グラムロックのトップ・アーティスト》
《カルト・スター》だったデヴィッド・ボウイ。
常に試行錯誤し、新しい境地を求めてきた《探求者》
70年代終わりの頃の ベルリン在住時代を経て、アメリカに戻り
レコード会社を RCA から EMIレコードに移籍し、
より、メジャーなアーティストとして 新たな道を模索していた……
そんな、世界的なアーティストが、よりメインストリームに
より マジョリティに
そんなふうに 届かせた 大ヒット曲連発の時代の曲を、LIVE 盤 で 👍
まずは、14枚目のスタジオ・アルバム
『レッツ・ダンス』(83年)……
80年代初頭、デヴィッド・ボウイと邂逅したナイル・ロジャースは、
「今度のアルバムは、こんな感じにしたいんだ」
と、赤いキャデラックに乗った リトル・リチャードの写真を ボウイから見せられた。
「はは~ん、わかったぞ!」
ナイル・ロジャースは了解した。
「どこか未来的なものを やりたがっているんだけど、根っこはロックンロールじゃないと駄目で
どこか ソウルやブラックミュージック、R&Bを感じさせて、でも、形は歪められて
なおかつエヴァーグリーンなものが やりたいんだな!」
……すげー 😵
リトル・リチャードの赤いキャデラックで ここまで読み取るとは……
恐るべし…ナイル《なトトメス》ロジャース……
デヴィッド・ボウイも、全面的な信頼をよせ
「ナイル、君に任せるよ。」
と
で、作業中は ラウンジでテレビを見ていて、たまにコントロール・ルームに仕上がりを確認しに来て
「凄ェ!」
と言って、場を外した そうな。
そんなデヴィッド・ボウイの気遣いに ナイル・ロジャースは感激し
「これは俺が生まれてこの方、受けてきた中で 最高の敬意だよ」
と、思ったそうな……
そんな『レッツ・ダンス』のアルバムは 17日間で、レコーディングからミックスまで仕上げた。
デヴィッド・ボウイのような《アート》なアーティストと、
ベタな「シック」の《コマーシャリズム》な自分の組み合わせの妙に、ナイル・ロジャースは こう解釈した
「これはデヴィッド・ボウイが コマーシャルな作品を作るという矛盾そのものがアートで、
イケてる事で、すげー 面白い!というもんなのだ」
『レッツ・ダンス』は、全米、全英ともに 1位を獲得、全世界で爆発的な売り上げを記録して
70年代の《デヴィッド・ボウイ》を知らない 若いオーディエンスをも 取り込んでいった。
私もその一人 😊
次の15枚目のスタジオ・アルバム
『トゥ・ナイト』
イギリスではチャート1位!
アメリカでもプラチナ・ディスクになりました。
しかし、1987年の16枚目のスタジオ・アルバム『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』で 異変が起こります。
全英チャートではアルバム・チャート6位
全米ビルボード 200 で、34位。
1986年、数々のアルバムを録音した スイス・モントルーのマウンテン・スタジオで
ボウイは《チェルノブイリ原子力発電所》の事故を知る。
シングル・カットの『タイム・ウィル・クロール』には、世界の終末の情景が描写されてます。
1995年のインタビューで ボウイは、
「私のどん底の作品だ。
酷いアルバムだったよ。」
と、語ってます。
でも、そんなに悪くはなく、好きなアルバム。
学生時代の友、ピーター・フランプトンと 演じる《メインストリーム》の楽曲は、実に魅力的!
しかし、結局 この不評が、次作のバンド活動
1989年 の、ビッグセールスから脱出したかのような
《ガレージ・ロック》のティン・マシーンを結成する事になります。
①『レッツ・ダンス』……『レッツ・ダンス』より
②『タイム・ウィル・クロール』(87年)……『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』より
③『モダン・ラヴ』(83年)……『レッツ・ダンス』より。
④『キャット・ピープル ( プッティング・アウト・ファイアー )』(82年)……シングル盤リリース後、アレンジを変えて『レッツ・ダンス』に収録。
⑤『アンダー・プレッシャー』(81年)……「クイーン」との共作。
クイーンは82年 の『ホット・スペース』に収録。
デヴィッド・ボウイは、95年 のリマスター盤の『レッツ・ダンス』のボーナストラックで収録。
⑥『デイ・イン・デイ・アウト』(87年)……『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』より。
⑦『チャイナ・ガール』(83年)……『レッツ・ダンス』より。
⑧『ブルー・ジーン』(84年)……『トゥ・ナイト』より。
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