ベティ(ベティ・メイフィールド)が浴室から出てくると、
化粧に非の打ち所がなく、
眼が輝き、
髪の手入れも 行き届いていて、
開いたばかりの《薔薇》のように見えた。
「ホテルへ 連れて行って下さる?
クラークに話があるのよ 」
「 彼を愛してるのかい 」
「あなたを愛してるんだと 思ってたわ」
「 あれは夜だけのことさ 」
と、私はいった。
「 それ以上のことを 考えるのはよそう。
台所にまだコーヒーがある 」
「もう いらないわ。朝のお食事のときまで 飲まないわ。
あなた、恋をしたことないの?
毎日、毎月、毎年、一人の女と 一緒にいたいと 思った事ないの?」
「 出かけよう 」
「あなたの様に《しっかり》した男が どうしてそんなに優しくなれるの?」
と、彼女は信じられないように訊ねた。
「 If I wasn't hard,
I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle,
I wouldn't deserve to be alive. 」
私は彼女に外套を着せて、
私たちは 私の車の所へ歩いて行った。
ホテルへ戻る間、彼女は一言も 口をきかなかった。
《『プレイバック』》
レイモンド・チャンドラーの1958年刊、
フィリップ・マーロウ・シリーズ 長編第7作。
『プレイバック』……チャンドラーの遺作……
この小説には
『 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. 』
という有名なセリフが出てきます。
1959年、初めての翻訳では
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」(清水俊二訳)
と言うように訳されています。
この台詞を日本で最初にクローズアップしたのは、1962年 小説家 丸谷才一 です。
丸山才一は1978年、《週刊朝日》のインタビューで こう語っています。
「 念のため断っておくが、当時はチャンドラー論なんてアメリカにもなかったし、
従ってその手のものを私は参考にしてゐない。
全部自分で考へたのである。
このマーローの台詞も、わたしが名せりふだと指摘する前は
別に大向こうをうならせてはゐなかったもので、つまり誰も注目していなかった。
が、わたしのこの文章によってマーローのこの台詞はたちまち名声を確立した。」
なかなかの自画自賛ですが、実際 現在でも日本以外ではこの台詞はそれほど有名ではない様です。
この『プレイバック』、元は映画用脚本の原型があり、それを翻訳したのが、
小鷹信光 訳の『過去ある女-プレイバック-』(1986年 サンケイ文庫 )です。
( The Screenplay of "Playback" )
この小説には フィリップ・マーロウは登場しません。
よって次の訳は、2016年の村上春樹 訳版になります。
そこでは、
「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるには値しない」
という風に訳されています。
一番耳馴染みのある
「 男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない 」
という訳は、『追いつめる』(67年)、『兇悪の門』(73年)の著作で知られる 生島治郎が
自著のあとがきの中で《ハードボイルドの定義》として訳したものが、
1978年、角川映画、高倉健、薬師丸ひろ子 主演の『野性の証明』の宣伝コピーとして利用され
一般層に知られる事になったようです。
また、矢作俊彦は『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫 1987年 )の中で、
この一節は正しくは
「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」
という意味であると述べています。
日本限定の名セリフなこの言葉……
なんとなく《侍魂》を感じますね。
日本人が好きなのが、理解出来ます😄
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