「ポエトリーリーディングなんて 誰にでもできる あんなん韻も踏まずに ただ言いたいこと 言うてるだけやもん けどラッパーはその 言いたいことをちゃんと韻を踏んで 伝えるから その何コも 上の難しいことをしてる」 俺 ポエトリーと称されるラッパー 全員に勝ってる気でいるけど ラッパーが ポエトリーに勝っとうなんて 考えたことない 海賊か 山賊か みたいな話 肩書きは問わない 勝った方が勝者 「韻を踏まなくていいってのは 踏めない奴の言い訳である」 そんな考えが多いことに少なからず 驚いた 韻はペン先を狭める足枷なん? 自由を奪うん? 同じ内容やと踏んどう方が価値ある 歌詞なん? ルールに守られる奴が守らせる 韻を盾にするなよ 武器にしろ 踏むことを外してでも 最初の言葉 普段の喋りに近い形でのせたくなる 瞬間がある けどそれは踏むこと同様 技術がいる 俺はソロでアルバムを8枚出し やっとそれができるようになった ビートにラップをのせる時 大事な基準があるとするならば それは一つ 韻を踏んでるか? 首を振れるか? 違う 己の納得だ 俺がラップを好きになった要因は 紛れもなく韻だ 数々のラッパーの母音が 高二やった俺の心を射抜いた 踏まずに書き 気付いた 韻の利点 踏むことで音楽になり 繰り返し聴ける せなあかんから踏んでんのか 必要を感じ踏んでんのじゃ 雲泥の差 韻とは 俺ん中で今んところ “ニス” 作品の見栄えを上げ 長持ちもさせる あるいは覇気 けど韻だけが覇気じゃない そして本質である拳は奥にある 韻が好きやからこそ俺は 踏まん方が刺さると判断した時は 迷わずそっちを採用する そうやって 地の力をつけ もっと強くなり いつか韻と世界一の曲を作る のることを外してでも 元々のトーン 音程より感情でいくべき局面がある それは生活の中で身につくフロウだ 10年以上続け やっと分かり出した ビートに対してラッパーが 守らなあかんことがあるとするなら ば たった一つ リズムをキープしてるか? ちゃんと売れるか? 違う ビートの信用だ 書いた言葉を ビートにのせるんじゃなく ビートが持つ言葉をペンで掘り 起こすのだ その作業の中で 自分が 言いたかったことの先にいける 書いたもんに 自分が驚く瞬間がなけりゃ 歌詞は没だ 何かをしなければそれでなくなる 音楽じゃなく 何をしたっていーからかかってこい よって音楽がしたい ビートの中じゃないと 生まれない言葉ってのは必ずある 16小節は宇宙だ