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1972年10月17日生まれ。本名マーシャル・”ブルーズ”・マザーズⅢ。12歳までカンザス・シティとデトロイトを母親と2、3ヶ月ごとに転々とし、友達もできず、トラブルの絶えない生活を送る。「唯一の安らぎがラップだった」というエミネムが繰り出すそのライムには幼少の頃からの環境/リアルな経験が刷り込まれ、結果的に過激に響くそのライムは類まれなる強烈な世界観を生み、全世界の若者達の熱狂的な支持を得ている。そのライムの内容ばかりでなく、独特のヴォイスとともに繰り出されるマシンガン級速さのラップ・スキル、フリースタイルもズバ抜けたセンスを持つエミネム。その想像を超えるモンスター・ストーリーは、MCバトルに盛んに参加しレコード会社にデモ・テープを送りまくっていた時期、インタースコープ創始者ジミー・アイオヴィンの自宅にあったテープを聴いたヒップホップ西海岸のドン=ドクター・ドレーが惚れ込み、自身のレーベル「アフターマス」と契約したことから加速を増す。 インディー時代の『スリム・シェイディEP』をベースにドレーとともに、ブラッシュ・アップ、リメイクした『スリム・シェイディLP』を99年にリリース。全米ポップス・チャート初登場2位を記録、衝撃のメジャー・デビューを果たす。そのアルバムからは「マイ・ネーム・イズ」というグラミー受賞曲も生まれる。1stアルバムから1年というスピードでリリースしたセカンド『ザ・マーシャル・マザーズLP』は、1週目セールスが176万枚を突破、ソロ・アーティストとしての1週目売上げ記録1位を樹立、初登場以降、8週連続全米1位を達成。 その後、暴力事件、裁判、離婚とスキャンダル性を増していく世界に囲まれていくなか、ヒップホップ有史以来最強のツアーと絶賛されたドクター・ドレー、スヌープ・ドッグらとの”アップ・イン・スモーク”、続いてリンプ・ビズキットらとの”アンガー・マネージメント・ツアー”と獲りつかれたかのように圧倒的なパフォーマンスをし続ける。 ’01年2月に行われたグラミー賞では3部門の受賞と共に作品中エミネムが標的にしているゲイをカミング・アウトしていたエルトン・ジョンとのデュエットを「スタン」で実現、度肝を抜かせた。そして休む間もなく同年6月彼の夢のプロジェクト、地元デトロイトの仲間とともに組んだヒップホップ・ユニット=D12(ディー・トゥエルヴ)のデビュー・アルバム『デヴィルズ・ナイト』を完成させ発表、初登場1位をあっさりと実現後、再びワールド・ツアーを開始。パシフィック・ツアーの一環で”フジ・ロック・フェスティバル’01″にて待望の日本初上陸を果たす。その後、アメリカに戻り、”ワープト・ツアー”になだれ込むように参戦するも他出演者との暴力事件で降板するというあいかわらずの”お騒がせぶり”をみせつけた。 その秋、突如のハリウッド進出発表、半自伝的映画と表されるこの映画タイトルは、エミネムの地元デトロイトを象徴するキー・ワード『8マイル』であった。映画『LAコンフィデンシャル』でアカデミーを受賞したカーティス・ハンソン監督のもとクランク・イン。それと平行してソロ3作目の制作に突入。参加アーティストには、御大ドクター・ドレー、朋友D12、ネイト・ドッグ、そして自らのレーベル=シェイディ・レコーズからの新人オービー・トライスらの名前が並び、『ザ・エミネム・ショウ』と名づけられた。このアルバムは「オレの人生、隠すものなし」という、全てを曝け出す覚悟のもと発表した衝撃の告白アルバムであった。当初エミネムは元妻の男友達を銃で脅迫し逮捕(離婚の原因のひとつにもなった事件)された6月3日を記念日としてリリース日に当てていたものの、発売直前になり、ネット上でのリークおよびブートレグの流出により、急遽発売日を前倒しにするという物議とともにリリースを迎える。そのためにチャート的には点数日数が3日間しかカウントされない不利なリリースになってしまう。しかしながらも初登場以降全米チャート5週連続のトップを独走、誰もが否定できないその吸引力、存在感、そして根強いサポーターの”ヒートぶり”をまざまざと世界に知らしめる結果になった。 リリース直後の7月からは前述のリンプとともに立ち上げた『アンガー・マネージメント・ツアー』をそのリンプ抜きで、イグジビット、リュダクリス、イクシキューショナーズ、パパ・ローチという贅沢なオープニング・アクトを従え開始、再び全米のオーディエンスを熱狂させる(ちなみにリンプとは、エミネムとビーフ(仲違い)状態にあった元ハウス・オブ・ペインのラッパー/シンガー=エヴァーラストを同じく元HOPだった現リンプのDJリーサルとそのリーダー=フレッド・ダーストが擁護して以来、不仲になっている)。ツアー慣行2ヶ月目に突入、全世界で『ザ・エミネム・ショウ』が大ヒットを続ける中、さらに追い討ちを掛けるようにエミネムはハリウッド襲撃に向かう。エミネム半自伝的映画『8マイル』の公開である。主演はもちろんエミネム、その母親役にキム・ベイシンガー、実力派若手俳優ブリッタニー・マーフィー、メキー・ファイファーがその脇を固めたこの作品は、11月8日に全米公開され興行成績1位を記録、当のエミネムのほかこの映画そしてエミネムのハリウッド進出をリスペクトする朋友D12、イグジビット、オービー・トライス、ジェイ-Z、メイシー・グレイ、NASらアーティストがこぞって参加した豪華ヒップホップ・コンピレーションとも言えるサントラも全米総合チャート初登場1位を記録。そこからのリード・トラック「ルーズ・ユアセルフ」は、意外にもエミネム初の全米NO.1ヒット曲となり12週その座を受け渡さないマスターピース・トラックとなった。またこのサントラにはエミネムが多額の契約金を払い自身のレーベル=シェイディ・レコーズに呼んだラッパー、50セントの「ワンクスタ」が静かに、そして不気味に収録されていた。 映画公開、全米ツアーを終了以降、エミネムは、自ら表立った活動を控え “シェイディ・レコーズ”のプロデューサーとしての動きが目立つようになる。その第1弾が、もはや肉体的にも精神的にも誰もが最強のラッパーと認めざるを得ない”2003年の事件”となった50セントのメジャー・デビューである。エミネムがエグゼクティヴ・プロデューサーとして参加したこの50セントのアルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』は、『ザ・エミネム・ショウ』同様ネット上のリークと海賊盤の流出によりリリース日が前倒しになるホドの大ヒットを記録。リリースから約1ヶ月で300万枚のセールスを突破、この盛り上がりは、アメリカでは “もはやエミネムのデビュー時を超えた”ともいわれるほどの熱風を真冬に起こした。 この勢いとともにエミネム衝撃の来日公演『アンガーマネージメント・ジャパン・ツアー』が発表され、その来日公演と同時期に映画『8マイル』の日本公開も決定する。日本もいよいよエミネム現象の予兆をみせはじめ、そして現実となる・・・。幕張メッセ3つの箱をぶち抜く空前のスケールの会場2日間で集まった8万人をノック・アウトしたその来日公演、120万人を魅了した映画公開で、オリコン、映画興行成績のトップを占領するという洋楽しかもヒップホップというジャンルでは快挙となる記録を打ち出した。そしてそのツアーは日本からヨーロッパを駆け抜け、6月末にそのツアーを終えるとシェイディ・レコーズのプロデューサーという立場により重きを置き、エミネムのホームタウン、デトロイトを故郷にするオービー・トライス、そして50セント夢のプロジェクト=G-ユニットのアルバム・リリースに携わっていく。しかしながら、表向きには「ナリを潜める」態勢に入るも彼を取り巻くその環境がエミネムを放って置かなかった。 エミネムのマイケル・ジャクソンの不夜城ともいうべき豪邸ネバーランド購入というウワサ、元妻キムの度重なる逮捕、確執わだかまる母親の下世話な情報などまさに有名税ともいうべくトラブル/ゴシップ/パパラッチ的ニュースが『ザ・エミネム・ショウ』リリース以降、自身名義での活動が2年近くないながらも “勝手に”全世界を飛びまわる状況が続いていた。一方、本業のアーティスト=プロデューサーとしては全米で大ヒットを記録したエミネムがリスペクトして止まない2パックのドキュメント映画『レザレクション~ヨミガエリ』のサントラ収録のリード・トラック「ランニン」で2パックと激しいビーフを繰り返したノトーリアス・B.I.G.を引き合わせ、ヒップホップ界最大の汚点とされる東西抗争の犠牲者である天才ラッパー同士を競演させ東西抗争に終止符を打つという偉業を成し遂げもしている。 そして2004年に突入するやすぐにD12のセカンド・アルバム・リリースを4月にターゲットにしていることを発表。全世界を嘲笑う自虐的ソング「マイ・バンド」(D12はエミネム抜きではただのバック・バンドに過ぎないというマスコミの下馬評を自らが先手を打って告白する歌詞でマスコミ封じを果たした)をファースト・シングルとして、瞬く間にアルバム『D12・ワールド』のリリースを迎え、当然のように全米チャート初登場1位を記録。日本でも”2004年型エミネム始動”というコピーのもと40万のセールスを突破した。そのリリースにともなうD12・ワールド・ツアーにはエミネムは不参加を表明、再びひたすらスタジオに”引きこもり”、クリエイティブ作業に没頭する。その作業のひとつの形として現れたのが50セント率いるG-ユニットからのソロ・デビューを飾ったロイド・バンクスのアルバム『ハンガー・フォー・モア』へのプロデューサーとしての参加である。エミネムがプロデュースしたファースト・シングル「オン・ファイア」がニューヨークを中心に全米で大ブレイク。続くG-ユニットからの刺客ヤング・バックのアルバムへのクレジットとしては参加しなかったもののスーパーヴァイザー的な立場で関与を果たした。 そして前年に続いて2パックのアルバムなどへのプロデューサーとしての参加、充実したクリエイティビティを頂点にするこのタイミングで発表された次なるエミネム・プロダクションは、なんとエミネム自身の4枚目のアルバムであった。タイトルは『アンコール』。そう、2002年発表された『ザ・エミネム・ショウ』、その”ショウ”の”アンコール”というワケである。そこからのファースト・シングルは「ジャスト・ルーズ・イット」と名づけられ、毒々のエミネム・ワールド満載のそのビデオ・クリップは早速様々な問題を孕み、その『アンコール』に収録された米大統領選挙への影響力も報じられた共和党/ブッシュ大統領を批判した超ポリティカル・ソング「モッシュ」もリークされるなど、その”幕開け”前 の喧騒ぶりも尋常ではなかった(その大統領選をもパロディ化した”Shady National Convention”なるイベントもMTVとNYにて大々的に開催。大きな話題となった)。 かくしてヒップホップというカテゴリーを超越した音楽、映像、ムーヴィー、アパレル、レーベル・オーナー…あらゆるエンターテインメントを取り込んだ”創造のモンスター”と化したエミネムが放ったフォース・アルバム『アンコール』からは結果、「ライク・ア・トイ・ソルジャーズ」、「モッキンバード」、「アス・ライク・ザット」と5曲のシングルをカット、04年最も売れたヒップホップ・アルバムの称号を当然のように獲得した。なかでも「モッキンバード」は、父親としての自分から愛娘ヘイリーちゃんへのあまりにもピュアな告白メッセージとプライヴェートなビデオで構成されたPVだったため、一部メディアではその創造への活力を”放棄”したかのようにさえ捉えられ、にわかに囁かれはじめていた”引退説”が表面化していくコトになる・・・。しかしながらその間にもエミネム関連のニュースは、途切れることなくメディアに登場し続けた。UFO狂信カルト教団がエミネムを「名誉聖職者」に認定といった売名行為的なものから、1stメジャー・アルバム『スリム・シェイディLP』が制作されたスタジオの競売など本人以外のニュース、もはや”腐れ縁”的な側面ももちはじめたthe source誌とのビーフ劇が泥沼化しかけるも「十分な著作権侵害報酬は得た」として控訴を取り下げるといったものや、7月2日(土)に、ロンドンとワシントンの2大会場で催されたライヴ8の出演依頼を断ったり、音楽シーンにおいての歴代”ワルなイメージ”アーティストの2位(1位はトミー・リー)に選ばれたり、オアシスのノエル・ギャラガーに「若者の暴力行為はエミネムのせい」とありがたい言葉を頂戴されたりといった、”いかにも”なエミネム自身のニュースなどが報じられていた。 また以前よりも増してホームタウン=デトロイトへの深い愛情に裏付けられたニュースも目立つようになる。映画『8マイル』のセットで使用されたレンガをオークションで発売、その売上金を実在する8マイル・ロードの再建に寄付、予算削減のため中止が発表されたデトロイト夏恒例の花火大会の運営資金を集めるためチャリティー・イベントを開催、MCバトルで競い合ってきたHUSH、トリック・トリックといったデトロイト・ラッパーなどへの楽曲提供、プロデュース参加などがそれらである。そんなデイリーで飛び込んでくるニュースの中でも最も自他ともに熱くなったニュースは、05年夏の未曾有のスケールで臨むと発表したエミネムと50セント双璧のジョイント・ツアー=アンガー・マネージメント・ツアー3であった。7月から8月にかけて北米20都市を巡るこのツアーは、50セントのセカンド・アルバム『ザ・マッサカー~殺戮の日。』のリリースを無事に迎え、満を持して計画されたまたひとつのピーク的な意味合いを持つ重要なものであった。エミネム自身「ついにその時が来たんだ。出来るだけ最高のラインアップにしたかったんだ。俺はツアーに出る度、いつでも前回のツアーを超えようとしてるんだ。今回は本当の意味で超えることができそうだ」とコメントした通り、D12、オービー・トライス、スタット・クオといったシェイディ・ファミリー、トニー・イエイヨー、ヤング・バック、ロイド・バンクス、オリヴィアらG-ユニット・ファミリーのほかクランク帝王=リル・ジョンやサウス・ヒップホップの雄リュダクリスなどが参加する文字通りヒップホップ最高峰のツアーとなった(続いてこのツアーのヨーロッパ版も9月に行うコトが発表され、再びシェイディ+G-ユニット・インベーションが世界規模で広がることが約束された)。このツアーのパフォーマンス模様はエミネムがオーナーを務めるサテライト・ラジオ”Shade 45″でインタヴューを交え独占放送され、同時期に前回のアンガー・マネージメント・ツアーのDVDをリリースするなど、エミネムのアントロプレナーとして才覚をも再び垣間見るものでもあった。しかしながらこの華やかなツアーもヒップホップ・ビーフの落とし穴に陥ってしまったエミネムのツアーDJ=DJグリーンランタンの解雇劇と共にスタート、その新DJとしてエミネムのステージに立ったアルケミストの乗っていたツアー・バスが横転事故を起こし、あえなく3公演のみでアルケミストは降板するという雲行きの悪さを序盤から伺わせていた。そこに追い討ちを掛けるかのように報じられたのは「エミネム引退」説であった・・・。マネージャー=ポール・ローゼンバーグ氏が語ったとしてタブロイド紙にまことしやかに掲載されたこの衝撃ニュースは、エンタテインメントのトップ・トピックスとして瞬く間に世界を駆け巡った。7月17日、エミネム自身によりステージ上でこの引退報道は否定されるも、8月13日のデトロイト公演にて終了したエミネムは、睡眠薬過剰摂取による精神不安定/疲労状態に陥り入院、ヨーロッパ・ツアーのキャンセルを敢え無く発表するに至った。当然のようにその”引退説”が再び浮上、拍車がかかるコトになった。 迎えた2005年10月。 エミネム・サイドがアップル社のiPodのTVCMに「ルーズ・ユアセルフ」が無断で使用されているとして著作権侵害で訴訟を起こし金銭的な和解で終焉したはずのCMが、エミネム本人出演という装いも新たに突如世界のTVメディアで大量オン・エアがスタート。そこには「Curtain Call – The Hits」という文字が刻印されていた。そのタイミングと同時にアフターマス/シェイディ/インタースコープからオフィシャル・リリースが出されることになる。エミネムのベスト/グレイテスト・ヒッツのリリースが決定、そのタイトルは『カーテン・コール。~ザ・ヒッツ』である、と。エミネム自身からもこのアルバムについて、「多くの人が好きな曲もあるし、おれしか好きじゃない曲もある。でもこのアルバムは、そんな”多くの人”のためのアルバムなんだ。」とコメントが発表される。新曲は3曲、そのシングルとして決定したタイトルはこれまた”引退説”を嘲笑うかのような「ホエン・アイム・ゴーン」。あらゆる意味で注目を集めることになる『カーテン・コール。~ザ・ヒッツ』のアイデンティティとは・・・? 7,000万枚のワールド・アルバム・セールスを誇るモンスター=エミネムの、これこそがその”ザ・ヒッツ”というタイトルに相応しいアルバムである。
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