本名ショーン・カーター、NYブルックリン出身。幼い頃から家族は生活保護を受け、11才のときには父親が家を出るという厳しい環境に育ち、自然とラップに目覚める。十代後半の頃ワシントンに移り、ビッグ・ダディ・ケインとツアーをする機会を得るがやがてまたブルックリンに戻りストリートで暮らすこととなる。26才のときに至近距離から撃たれたことを境にラップに再挑戦、(当時はまだ無名に近かった)クラーク・ケントの紹介でデイモン・ダッシュと出会う。意気投合した二人はRock-A-Fellaレコードを設立、96年には『Reasonable Doubt』を発表、以後97年『In My Lifetime Vol.1』、98年『In My Lifetime Vol.2』、99年『Vol.3ライフ&タイムス・オブ・ショーン・カーター』、2000年には『ザ・ダイナスティ・ロッカラ・ファミリア』をリリース、合わせて2,000万枚以上のセールスを誇る。客演仕事もマライアからRケリー、メアリー・J・ブライジにマイケル・ジャクソン(その数、実に200曲以上!)。2001年9月11日(奇しくもテロ事件当日)に通算6枚目となるアルバム『ザ・ブループリント』をリリース、全米アルバム・チャートで初登場1位を記録。自身の“あだ名”をタイトルにしたファースト・シングル「IZZO(H.O.V.A.)」は世界的なヒットとなった。2002年2月に初のアンプラグド盤=『ジェイ・Z・アンプラグド』をリリース。同年11月には急遽2枚組となった7作目『ザ・ブループリント2 -ザ・ギフト&ザ・カース』を発表、やはり全米アルバム・チャート初登場1位となり、オリジナル・アルバムとしては5作連続の記録を打ち立てた。その翌年、突如ラッパーとしての引退を表明し、リリースした8作目『ザ・ブラック・アルバム』も初登場1位を記録し、ジェイ・Zはデフ・ジャムの社長兼CEOの座に就いた。その後、R.ケリーやリンキン・パークとの共作の成功を経て、再度アーティストとしてマイクを持つ決心をする。
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